危機管理業務部 研究員
 松並 栄治

※「方丈記に見る災害記録(その1)」のつづき。
 「その1」は、2015年5月25日付の記事を参照ください。



 前回は方丈記に記載された「大火」と「竜巻」についてご紹介しましたが、今回は「飢饉」と「地震」についての記述をご紹介します。

5押¢
 『…また養和のころ(1181年)だったろうか、二年間ほど、世の中に飢饉が続いて、表現できぬほどひどいことがあった。春夏の日照り・干ばつ、秋冬の大嵐・洪水など、悪天候が続いて、五穀がことごとく実らなかった。春に田を耕し、また夏に植え付けの作業をするが、秋に収穫し、冬に貯蔵するものがなにもない。
 こんな有りさまなので諸国の民は、あるものは国を捨て、あるものは自分の家を忘れ山の中に住む。さまざまの祈祷がはじめられ、とびきりの修法も行われたがその兆候も出ない。京の都の日常では田舎の産物をたのみにしているのに、それもすっかり絶えた。京に上る者もなくなり、食料が欠乏してきたので、取り澄まして生活することはできなくなってしまった。耐え切れなくなって、さまざまな財産を捨てるように売ろうとするが、てんで興味を示す人もいない。まれに売れたとしても、金の価値は軽く、粟は重く評価される。物乞いが道ばたに多く、憂い悲しむ声は耳にあふれる。
 前の年はこのようにしてようやくのことで暮れた。翌年こそは立ち直るはずと期待したのだが、あまつさえ疫病が発生し蔓延したので、事態はいっそうひどく、混乱を極めた。
 世間のひとびとが日毎に飢えて困窮し、死んでいく有さまは、さながら水のひからびていく中の魚のたとえのよう。しまいにはそこそこのいで立ちをしている者が、ひたすらに家ごとに物乞いをして歩く。衰弱しきってしまった者たちは、歩いているかと思うまに、路傍に倒れ伏しているというありさま。屋敷の土塀のわきや、道ばたに飢えて死んだ者は数知れぬばかりだ。遺体を埋葬処理することもできぬまま、鼻をつく臭気はあたりに満ち、腐敗してその姿を変えていく様子は、見るに耐えないことが多い。ましてや、鴨の河原などには、打ち捨てられた遺体で馬車の行き交う道もないほどだ。
 賤しいきこりや山の民も力つきて、薪にさえも乏しくなってしまったので、頼るべき人もいないものは、自分の家を打ち壊して、市に出して売るのだが、一人が持ち出して売った対価は、それでも一日の露命を保つのにも足りないということだ。
 いぶかしいことには、こういった薪のなかには、丹塗りの赤色や、金や銀の箔が所々に付いているのが見られる木っ端が交じっていることだ。これを問いただすと、困窮した者が古寺に忍び込んで仏像を盗みだし、お堂の中のものを壊しているのだった。濁り切ったこの世界に生まれあわせ、こんな心うき目をみるはめになったことだ。
 また、たいそうあわれなことがあった。愛する相手をもつ男女が、その想う心が深い方が必ず先に死ぬのだ。その理由は、自分のことを後にして、男であれ女であれ、ごくまれに手に入れた食べ物を、思う相手に譲ってしまうからなのだ。従って親と子供では決まって、親が先に死ぬ。また母親が死んでしまっているのに、それとも知らないでいとけない子供が母親の乳房に吸いついているのもいる。
 仁和寺の大蔵卿暁法印という方が、このように人々が数しれず死んで行くのを悲しんで、僧侶たちを大勢使って、死体を見る度に、その額に成仏できるようにと阿(あ)の字を書いて仏縁を結ばせることを行った。死者の数を知るために、四月と五月の二月の間その数を数えさせた。すると京のなか一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀大路よりは東の区画(都の中心部)で、路傍にあった死体の頭は、総計四万二千三百あまりという。ましてやその前後に死んだ者も多く、鴨川の河原や、白川あたり、西の京、その他の周辺地域を加えて言うと際限がないはずだ。いわんや全国七街道を合わせたら限りがない。最近では崇徳院のご在位の時代、長承のころにこういった例があったとは聞くが、まことに希有なことで、悲惨なことであった。…』

乾燥
 3つめは、「飢饉」についての記述です。
 全国的な大飢饉が発生し、その影響による京都の悲惨な状況が記述されています。干ばつや大雨、洪水、疫病により、京都では無数の餓死者が発生し、仁和寺の僧侶が遺体を数えたところ、京都市街地の半分だけで約4万2千人を超えたといいます。東日本大震災における現時点での死者数1万6千人弱(震災関連死を含まず。)と比較しても、「京都には地獄が存在した」という記述は決して大げさではないと感じられます。

っ蓮/
 『…また元暦二年(1185年)のころ、大地震が襲った。その有り様は尋常ではなかった。山は崩れて川を埋め、海では津波が発生して陸を襲った。地面は裂け水が湧き上がり、岩は割れて谷に落ち、渚をこぐ舟は波に漂い、道を行く馬は足元が定まらない。
 まして都の内外では、至るところあらゆる建物は一つとしてまともなものはない。あるものは崩れさり、あるものは倒壊する際に塵が舞い上がり煙のようだ。地が揺れ家が壊れる音は雷のようだ。家の中に居たならたちまち押しつぶされかねない。走って飛び出せばまた地面は割れてしまう。人は羽をもたず空を飛ぶことはできない。また龍でないので雲に上るわけにもいかない。恐ろしいもののなかでとりわけ恐るべきものは地震なのだと実感したことだ。
 そういった中に、ある侍の六、七才の一人息子が、築地塀の蔽いの下で小さな家を作ったりして、他愛もない遊びをしていたのだが、この地震で急に塀が崩れて埋められ、無残に押し潰され、二つの目は一寸(3cm)ばかりも飛び出してしまった。その子供の遺体を父母が抱えて、声も惜しまず嘆き悲しんでいるのは、まことに哀れであった。子供を亡くす悲しみには、勇猛な武者も恥じを忘れてしまうのだと改めて気づいた。これは気の毒だが当然のことだと思われる。
 このような激しい揺れは短時間で止んだのだったが、その名残りの余震はその後絶えず続いた。普通にびっくりするほどの強い地震が、一日に二三十度は下らない日はない。十日、二十日と経過していくと、だんだん間遠になって、一日に四五度となり、二三度、あるいは一日おき、さらに二三日に一度など、おおよそ余震は、三カ月ばかり続いただろうか。
 四大災害の中では、水火風は常に害をなすのだけれど、大地震は(大地に至りては殊なる変をなさず)むかし、齋衡(854〜857年)のころとかに大地震があり、東大寺の大仏の頭部が落ちたりといったひどい被害があったが、それでも今回の地震ほどではなかったという。その当時は人々は互いにどうしようもないことを嘆きあって、心の憂さを晴らしているように見えたのだが、年月が経過してくると、このような災厄を日常の話題にのせる人もなくなってしまった。…』

地震
 4つめは、「地震」についての記述です。
 『山は崩れて川を埋め、海では津波が発生して陸を襲った。地面は裂け、水が湧き上がり、岩は割れて谷に落ち、』という記述からは、山の崩壊や土砂崩れ、津波、液状化等の被害が発生していることがわかります。また、本震発生後、余震が3カ月ほど続いたこともわかります。これに関しては、その規模があまりに大きいため、現代でも発生が懸念されている南海トラフ巨大地震だったのではないか、という見方もされているそうです。

 以上、2回にわたり「方丈記に見る災害記録」についてご紹介してきました。
 災害の様相は、過去であれ現在であれ、時代が移り変わり文明が進歩しようとも、それほど大きく変わることはないということがご理解いただけたのではないでしょうか。
 各地域に残る過去の災害の様相を記録し、そこから得られた様々な事柄を教訓として残しておくことが大切ですし、「その地域で過去にどのような災害が発生していたのか」という事実を地域の住民が知っているか否かで、いざという時の対応にも大きな差が出るものと思われます。
 このように、各地域における災害発生時の被害の未然防止及び災害発生時の対策等を検討していくうえで、このような過去の記録や文献等についても参考にするとともに、大いに活用することが非常に重要なのではないでしょうか。