代表取締役社長
山本 忠雄

※「「平成28年熊本地震」現地調査レポート〜被災地で「備え」について考えたこと〜(その7)」の
 つづき。「その7」は、2016年10月3日付の記事を参照ください。



 16:00頃 益城町保健福祉センター 
 総合体育館を見た後、益城町の災害対策本部が入っているという保健福祉センターに移動した。
 どこかの自治体の応援職員の誘導を受けて正面玄関前の駐車場へと入って行くと、玄関脇では「牛丼の吉野家」が差し入れをしていた。夕食には少し早い時間ではあったが、避難者の行列ができていた。
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< 玄関脇で差し入れを行う「牛丼の吉野家」 >

 すぐ近くの広安小学校には避難所が開設されていたが、この保健福祉センターにも大勢の避難者が生活していた。玄関前の救援物資を集積したすぐ傍で毛布などを敷き、ブルーシートを掛けて寝ている人もいたし、1階と2階の部屋や廊下などには、避難者が思い思いに寝具を敷いて避難生活をしているように見受けられた。ここでもまた、避難住民による自主的な避難所運営組織ができ、統制ある避難生活がなされていないのではないかと思われた。
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< 避難スペースと化している玄関前 >

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< 思い思いに寝具を敷いて生活している避難者 >

 ここの避難所の支援体制もまた総合体育館に劣らず大変充実したものであると感じられた。
 ここには、地元の第8後方支援連隊が給水所、炊事場、救護所及び入浴施設を開設して支援をしていた。給水所では、隊員が2名配置されていて、水タンク車からの汲み取りを手伝ったり、ペットボトルに入った水の配布をしたりしていた。また、入浴施設の前では女性の入浴時間なのであろう、椅子で待つ避難者に何やら説明をしているようであったが、あるいは世間話に応じていたのかもしれない。
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< 入浴施設の前で何やら説明を行う自衛隊員 >

 自衛隊の入浴施設と炊事場の近くには、「大分県薬剤師会」「災害支援車」という表示を付けた初めて目にする車両が停まっており、そこでは薬剤師会の方々が「医薬品交付所」を開設していた。私は、薬剤師会の被災地での活動については全くというほど知識はなかったし、その車両や施設を見るのも初めてであった。薬剤師は、阪神・淡路大震災、新潟県中越沖地震、東日本大震災などの被災地において大変重要な役割を担ってきたそうで、医薬品の仕分け、調剤、代替薬の指示、避難所の公衆衛生の管理、被災者の感染予防、健康管理、被災者の心のケアやヒアリングなどの業務を行うのだそうだ。私の場合、医療と言えば、災害派遣医療チーム(DMAT)に目が行きがちであったが、今回は遅ればせながら、実視により薬剤師会の重要性を認識した次第である。
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< 大分県薬剤師会の災害支援車 >

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< 薬剤師会が開設した「医薬品交付所」 >

 屋内には、災害派遣医療チーム(DMAT)による救護センターや保健師の方々による健康相談所、町職員や他自治体からの応援職員による救援物資配給所なども開設されていた。保健福祉センターだけあって医療関係者には使い勝手が良い施設であったであろう。
 災害派遣医療チーム(DMAT)について言えば、私達が行った時には地震発生から10日が経ち、DMATの主任務である負傷者に対する医療救護活動は既に終了していた時期であったが、それでもDMATの方々は残り、避難所などでの医療活動を行っていた。東日本大震災の時には、DMATがその派遣の原則−災害の急性期(概ね48時間以内)の救命を重視した医療活動を行う−に沿って早期に撤収してしまったため、被災地の医療活動が手薄になったことが課題として指摘されていた。今回はその運用見直しの成果なのであろう。
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< DMAT等が活動する保健福祉センター内  

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< DMAT等が活動する保健福祉センター内◆ 

 仮設トイレは保健福祉センターの建物脇に設置され、屋外ではあったが、ブルーシートによる雨よけの工夫がなされていた。総合体育館の方の簡易トイレは、体育館の建物から道路を隔てた駐車場の端に設置されていたので、夜は不用心だし、雨が降っている時には傘をさして行かなければならない。ここであれば雨に濡れることを心配せずに使用できる。少しでも快適な避難所生活のためには、仮設トイレの設置場所の選定もまた気配りが必要である。
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< 保健福祉センターの建物脇に設置された仮設トイレ >

 保健福祉センターの執務室であろうカウンターの中では、応急危険度判定士の方々が集まって、何やら打合せのようなことをしていた。今日の成果と明日の業務調整をしていたのだろうか。他の自治体から応援に来た人など人数が多いのには驚いたが、あれだけの家屋の被害が出ていては、これでも足りないくらいだろうと思い直した。
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< 応急危険度判定士の方々が集まる執務室内 >

 益城町災害対策本部は、保健福祉センターの奥の方のラウンジに開設されていた。ラウンジの床にはブルーシートが敷かれ、本部の各班職員や自衛隊、国土交通省等の関係機関の連絡要員の他、関西広域連合・福岡県益城町災害対策支援本部の応援職員等が忙しそうに動き回っていた。また、ラウンジの奥の小部屋では、災害対策本部長である町長を囲んで会議が開かれているようであった。
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< ラウンジに開設された益城町災害対策本部 >

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< 自衛隊、国土交通省等の関係機関の連絡要員 >

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< 関西広域連合・福岡県益城町災害対策支援本部の応援職員 >

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< 益城町災害対策本部内の様子 >

 益城町では町長さんをはじめ職員の方々も地震対応の災害対策本部の活動は初めてのことであろう。訓練でも経験したことがなかったに違いない。それが、庁舎が使えない事態になったためにやむなく福祉保健センターの一角に本部を開設し、しかも、同じ施設の中に多くの避難者を抱えた状態で、いきなり本番の本部活動を実施せざるを得なくなってしまった。
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< 本部長である町長がいるラウンジの奥の小部屋 >

 相次ぐ余震や豪雨、自分達職員も家族も被災した中で、本部施設の準備や電話の設置等の活動体制の整備をしつつ、被害状況の把握、避難者の収容、倒壊家屋等からの救出・救助、救援物資の手配、被災者や県等からの要請や問い合わせへの対応、さらには関係機関や他自治体等からの応援職員の受け入れなど、何をどのようにやって良いか分からず、「対応が後手に回ってしまった(町長さんの発言として報道されていた)。」のも仕方がないことであろう。地震への対応は風水害へのそれとは違うし、基本的な災害対策本部の運営体制ができていなければ(益城町の方々には誠に気の毒で、失礼な言い方ではあるが)、不意を食らうのは当然である。
 これまでも大きな災害がある度に自治体の対応の不手際が指摘され、その改善策も示されてきた。今回の地震対応の是非もまた貴重な教訓である。


 18:00頃 第5施設団指揮所(南阿蘇村役場長陽庁舎内)
 保健福祉センターを見た後は、南阿蘇村役場の長陽庁舎に向かった。第5施設団指揮所を訪問するためである。
 昼過ぎに施設団長から私の携帯に電話があり、第9施設群長から私が熊本に来ているという報告を受けたと言う。今朝第9施設群の宿営地に立ち寄った時に名乗ったので、群長が気を利かせて注進をしてくれたらしい。夕方には長陽庁舎の指揮所にいるということであったので、訪問することにしたのである。
 長陽庁舎に入ると左手にカウンターがあり、執務室の方では数人の職員が何やら打ち合わせをしているのが見えたが、昨夕の本庁舎とは違って報道関係者なども見当たらず、全体としてひっそりとした感じであった。災害対策本部の機能は本庁舎の方に集約しているのであろう。
 玄関にいた隊員に案内してもらい、1階奥の会議室に開設された指揮所に入った。団長席の前には、大きな地図に部隊の展開状況などを表示した状況図、スクリーン、左右の壁や後ろの衝立には、気象情報や部隊の現況等が、団長席の後ろには、指揮所勤務者の執務場所が配置されている。久しぶりに見る陸上自衛隊の指揮所は懐かしく、また、頼もしくもあり、日頃の訓練で目にする自治体の災害対策本部の雰囲気とは大いに違うものがある。
 施設団長に益城町役場の近くの八百屋で買って来た「デコポン」を差し入れた後、災害派遣の状況について説明してもらった。4月14日夜の地震発生後すぐに災害派遣となり、あちこちで道路が通れない状況になっていたので、迂回と道路啓開をしながら被災地域に入り、10日経った現在では、かなりの道路が通行できるようになりつつあるとのこと。状況図を見れば、阿蘇山周辺の広い地域に各隷下部隊が担任地域を割り当てられ、それぞれ数ヶ所の被害発生現場を受け持っている。
 「余震が続く中、二次災害を気にしながらの復旧作業はさぞ大変なことでしょうが、くれぐれも頑張ってください」と申し上げ、雨降る中、玄関で見送られて庁舎を後にした。
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< 第5施設団指揮所内で施設団長(右)と >


 19:00頃 ホテルグリーンピア南阿蘇
 25日と26日の宿舎は、阿蘇山と対面する場所に位置する「ホテルグリーンピア南阿蘇」というリゾートホテルであった。ここも齋藤が苦労をして探してくれた。
 このホテルは、施設の損傷もなく、水もトイレも不自由なく使うことができた。施設も整い、きれいで、温泉があり、残念ながら見ることはできなかったが、天気が良い時には雄大な阿蘇山を眺望することができ、リゾート施設としては申し分がない所だと思われた。
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< ホテルグリーンピア南阿蘇からの眺望 >

 ホテルが近くなると、あちこちの空き地に自衛隊の車両が停めてあり、ホテルの下の体育館には第3師団(伊丹)隷下の災害派遣部隊が宿営していた。ホテル前の駐車場には、自衛隊、警察、消防の車両がほぼ満杯の状態で停めてある。また、駐車場内には簡易トイレが10基くらい設置されており、自衛隊員や消防隊員が利用していた。
 このホテルには、総務省消防庁の防災服を着た人、警察の人、自治体の防災服を着た人など、色々な組織の人達が泊まっていた。朝食の場で、どのような任務で来ているのかを尋ねるのはさすがに気か引けて聞くのは控えたが、ここに泊まっているということは南阿蘇村の応援に来ている人達だろうか?それとも、我々のように熊本市内に宿を見つけることができずに、やむを得ずここに泊まっているのだろうか。そう言えば、24日夜に泊まったペンションの近くにも警察や消防の部隊が宿泊していた。応援の人達が宿泊をし、また、色々な物を買うことにより、被災地の経済的な復興支援にもなる。ともかく、直接、間接いずれの面においても熊本を支援しなければならない−慌ただしく食事をして出かけて行く人達を見ながらそう考えていた。
 26日の朝、出かける際に、駐車場で第3後方支援連隊(伊丹)の陸曹長の方にお会いした。レッカー車の傍に立っていたので、何をしているのかと聞いたら、「故障車などが発生し、支援の要請があればすぐに駆け付けられるよう待機している」とのこと。こちらに来て既に4日経つとのことだったが、いざという時に備えて1日中この駐車場で待っているというのも、さすがに何日もとなるとなかなか大変なことであろう。心から労をねぎらって別れた。

 次回に続く。