危機管理業務部 主任研究員
 三宅 丈也

 今から400年以上前の戦国時代、全国各地で戦国武将たちが群雄割拠し、下剋上は当たり前、親子の間でも騙し倒し合う、弱肉強食の何でもありの世界だった…?いいえ、決してそのようなことはありませんでした。戦いの場を眺めおろせるような高地に、手弁当片手に集まった百姓たちが「戦い」を観戦したりするなど、のどかな一面もあったようです。当然、当の戦いの兵士たちが襲ってくるということも殆どなかったみたいです。
 逆に、負け戦側は、時として、これら百姓たちによる落ち武者狩りを怖れねばならなかったようです。豊臣秀吉との山崎の戦いに敗れた明智光秀は、一説では、逃走中の小栗栖で落ち武者狩りの百姓に竹槍で倒されたと言われています。

 そんな戦国の世で、第一の名将と謳われたのが武田信玄です。「人は城、人は石垣、人は堀…」で有名な甲斐の国(山梨県)の武将で、この名言のとおり、実際に城も作らず躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)にあって全国の武将たちを恐れさせたというものです。
三宅_No.04_武田信玄
【 戦国時代の名将、甲斐の武田信玄 】

 この武田信玄にまつわるエピソードは数多くありますが、あまり知られていないのは「信玄堤(しんげつづつみ)」ではないでしょうか。山梨県にお住いの方はご存じのことだとは思いますが、旧竜王町にある釜無川(かまなしがわ)と同支流の御勅使川(みだいがわ)の合流付近の堤防「信玄堤(霞堤)」は、武田信玄が約20年近くもの長い年月と膨大な経費を掛けた大事業でした。
 戦国のこの頃、毎年のように、雨期になると大水に見舞われ、付近の住民は苦しめられていましたが、信玄が築いたこの堤によって被害はなくなり、約450年経った現在においても治水の役目を担ってくれているのです。国土交通省関東地方整備局甲府河川国道事務所のホームページで詳しくまとめられていたので、以下にご紹介(引用)します。

 《信玄が用いた工法は、当時としては画期的なものだった。
 それまで扇状地を自由奔放に流れていた御勅使川の流れをまっすぐに固定し、その主流を竜王の赤石にぶつけた。さらに「将棋頭(しょうぎがしら)」と呼ばれる石組みを築いたもので水流を二分、その水が釜無川と合流するところに石組みを築き、水勢をそいで釜無川と順流させる方法をとった。最後には、赤石の下流に1,800m以上にわたる堅固な堤防を築いて樹木を植えさせました。》
(出典:甲府河川国道事務所HPより)


 つまり、幾多の水の流れを一本にまとめ上げ、堅固な自然岩などでその水勢を弱めた上に、水流を二分してさらに水勢を弱めてから主流に流し込む。そして、下流域には長堤防を築くというものであり、水流≒自然(災害)に真正面から逆らうのではなく、水流を受け流しつつ徐々にその水勢を削いでいくという理にかなったものでした。

 また、熊本地震において、その強靭さ、技術の優秀さにおいて世間を瞠目させた熊本城を築いたのが豊臣秀吉子飼いの加藤清正です。虎退治や賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍で有名ですが、豊臣衰退後も秀頼を庇護するなど、徳川家康が最も警戒した武将の一人でもありました。
三宅_No.04_加藤清正
【 肥後熊本藩初代藩主、加藤清正 】

 彼の得意とするものの一つに「築城」があり、今般の熊本地震においては、その素晴らしさを後の世の我々に見せつけてくれました。しかし、清正の凄さはそれだけではなく、河川等の治水においても非凡な才能を示しています。国土交通省九州地方整備局熊本河川国道事務所のホームページで詳しくまとめられていたので、以下にご紹介(引用)します。

 《肥後(熊本県)は長らく多数の国衆が群雄割拠した状態でまとまりが無く、大規模な国づくりがなされていませんでした。特に白川、緑川、菊池川といった大河川が多いのに河川整備は手つかずの状況で、大雨による河川の氾濫が頻発し領民は苦しんでいました。
 清正は入国後大がかりな領地整備に着手します。新しく熊本城を築城し、城下町の防御及び洪水被害から守るため、坪井川と白川を切り離すなど大幅な改修を行いました。
 また、坪井川を城下町と他地域を結ぶ舟運航路として整備するとともに、領内の多くの川で利水堰を設けかんがい用水を確保することで水田を大幅に開発しました。》
(出典:熊本河川国道事務所HPより)


 清正は手付かずだった河川の整備を行って洪水被害を無くすとともに、領国内の川という川に灌漑用の堰を設けて米の増産(=国力増大!)を成し遂げ、現在でも熊本では「せいしょうこう(清正公)さん」と呼ばれ親しまれているそうです。

 信玄も清正も対外的には恐れられる存在でしたが、領国では後々まで慕われ続けていることからも、領民にとっては暴れる河川を治めてくれたうえに米の生産アップも図ってくれた良き殿様だったのでしょう。
 日夜戦いに明け暮れていたはずの戦国武将ですが、一方で、領国では治水・利水によって暴れ川を恵みの川に変えて農業基盤を確たるものにして生産性を向上させ、さらには領民の心を掴むなど、一石二鳥となる領国経営を行っていたのです。まさに、「治水・利水」による「治国」と言えるでしょう。
 しかしながら明治以降、近代化の名の下、欧米の先進土木技術が流入し、「治水」についても護岸工事等の構造物中心の考え方、つまり水の流れを「抑え込んでコントロールする」という真っ向から相対するという姿勢に変わってしまったと言えるかもしれません。ですが、現代に至るまで洪水が絶えたことはなく、全国各地で度々発生しています。当然、予算的に護岸工事が間に合わないという理由も大きいのでしょうが、根本的に、我々人間が「自然(災害)」に立ち向かっても勝てる見込みはありません。「水の流れ≒自然(災害)」に対しては、ハード面では「受け流し」て勢いを削ぐとともに、ソフト面では「早期避難」等による「減災」を図っていくなど、総合的な防災行動が重要になります。つまり、無理をして水に立ち向かっていくのではなく、水を受け流して水勢を減じたうえで被害の軽減化を図るなどの「備え」を準備するとともに、既に生起してしまった被害については、その拡大を極限(早期避難等)するという「減災」の考え方を、400年以上前の戦国武将たちは「堤」や「堰」などを通じて今の私たちに伝え、教えてくれているのではないでしょうか。