危機管理業務部 主任研究員
 三宅 丈也


 昔、我が国のどこかに邪馬台国(やまたいこく)という国があって女王である卑弥呼(ひみこ)が鬼道(きどう:シャーマニズム)をもって30ヶ国を治めた旨の記述が「中国の古い歴史書」にあります。漢字表記に異論はあるもののその様な「音(おん)」の国と女王が古代日本に存在していたことは間違いなさそうです。しかしながら、卑弥呼の死については時期、場所そして理由等の全てが不明確で、ただ3世紀の「中国の史書の一節」に「(敵対国との戦争の記述)・・・以て死す」という死を思わせる記述があるだけです。翻って、我が国の最も古い古典である「記紀」を見ると、邪馬台国や卑弥呼についての記載はたった数カ所、神功皇后の部分にあるのみで、それも本文の分注の位置付けで「中国の史書に云う」という伝聞式で素っ気ないものになっています。どうも神功皇后に結び付けたがっている様ですが、この辺の背景には様々な議論もあり本ブログの趣旨と掛け離れてしまうためこの辺りにします。
 一方、卑弥呼は実在の疑われる神功皇后ではなく、「音」の「日(ひ)の巫女(みこ)」であることから、天照大神だとする説もあります(異論あり)。これによれば有名な天岩戸(あまのいわと)伝説は、太陽の化身である天照大神は皆がいうことを聞かない為に岩窟に隠れてしまい、世が暗くなって悪霊が跋扈し・・・という話ですが、一説では日食のことを暗示しているのではないか、というものです。そして、天文気象の記録から実在の卑弥呼が生きた頃の日食の日時、場所を比定し、その死の真相を追及しようとします。ご存知の通り、邪馬台国の比定地は九州説と大和説に大きく分かれますが、天文学的に、この頃ともにこれら地域で日食が見られたのは西暦247年3月24日と同248年9月5日の2回と計算されるそうです(異論もあり)。このことから、卑弥呼の死の真相、時期や理由(一説では、日食を止められなかったため鬼道の力が衰えたとされ、太陽への生贄にされた(=死)との説)、そして邪馬台国の場所さえ推定しようとするものであり、壮大な仮説ですね。
 話は変わって、最近映画にもなった『かぐや姫』で有名な「竹取物語」ですが、ただの昔話と思っていませんか。実はとても含蓄に富んだ内容なのです。成立時期は諸説あり大体平安初期の頃とされ、作者不詳、仮名(かな)によるわが国最古の物語といわれています。当時は、「この世をば我が世ぞと思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」という道長の頃の有名な歌のとおり藤原氏全盛の世で、庶民には窮屈な時代でしたが、物語ではかぐや姫に求婚した時の権力者たち5人全員が袖にされてしまいます。そして、この中の一人が名前等のゴロ合わせからどうも当時の藤原氏の貴人を指しているとされ、藤原氏全盛を当に風刺した物語だったとの説もあります。
 一方、危機管理の観点からは、この「竹取物語の最後の一節」当時実際にあった自然災害についての記載・記録が残されています。その場面は、現代語訳で要約しますと「・・・(かぐや姫が月に戻ってしまったことを悲しむ)帝は『月に一番近い山はどこか』と近臣に尋ねられ、『駿河の国にあるという山(富士山)が、この都にも近く、天にも近うございます』と知り、『(月に帰ったかぐや姫に)遭うこともなく、悲しみの涙に浮かぶ我が身には、不死の薬も何の役にも立たない。』と嘆かれ、姫から貰った不死の薬と手紙の入った壺を使者に持たせて、月に一番近い場所である(富士山の)山頂で一緒に焼かせた。そのため『今も山頂からは煙が上がっている』」と伝えて物語は終わります。余談ですが、この不死(の薬を焼いたこと)から富士山と呼ばれるようになったともいわれています。
富士山(富士宮市フリー画像から)

 富士山は数千年の間に100回以上も噴火をしているとされ、古典文献等にも記録として残されています。例えば、竹取物語の成立の頃とされる平安の御代(794年〜1185又は1192年)では、800年と802年の延暦大噴火(「日本紀略」)と、864年〜866年の貞観大噴火西湖と精進湖、青木ヶ原樹海が誕生)が該当するかと考えられます。その後も度々噴火していますが最後となる宝永噴火(1707年)以降は噴火が無く今に至っています。つまり、この「竹取物語」が成立した頃には富士山頂からは延暦噴火又は貞観噴火の噴煙がまだ普通に立ち昇っていたという歴史的事実が分かるのです。
 その他、災害についての確たる記載として我が国最古といわれるのが「日本書紀」にある白鳳地震と呼ばれた地震災害の記載です。これは684年(天武天皇13年)に南海トラフを震源としたと推定される巨大地震が西日本を中心に襲い、四国の太平洋側沿いの土地が沈降したことや浸水の状況などについて詳述しています。
 さらに、今から千年余の昔の平安時代、東北地方沿岸を大津波が襲い、多くの人々が命を失いました。これが東日本大震災をして1000年に一度の大震災と呼ばせる根拠になった貞観地震(869年)であり、「日本三代実録」に残されています。
 同じく平安時代の末期、「方丈記」(鴨長明)には、琵琶湖西岸付近を震源としたM7級と推定される巨大地震(1185年)の被害について記載されています。これは方丈記を著した長明本人が体験した大きな揺れや、長く続く余震への恐怖などが生々しく記述されています。
 この様に、日本の古典文献にも人々が当時伝聞あるいは体験した実際の自然災害等の記憶が詳細に残されています。そこには、「いつ(When)」、「どこで(Where)」、「どんな災害が起きて(What)」、「誰が(Who)」、「なぜ(Why)」、「どの様な被害が受けたのか(How)」などが「先人の教え」として残されているのです。
 最後に、中央防災会議が平成23年9月28日にまとめた報告書『東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会報告』によりますと、《従前の「想定の考え方」の反省》として、過去事例を参考としつつも災害の概要が不明確な貞観三陸沖地震(869年)、慶長三陸沖地震(1611年)、延宝房総沖地震(1677年)などを考慮外としたことを真摯に反省し、たとえ確からしさが低くても地震・津波被害が圧倒的に大きかったと考えられる歴史地震については十分考慮が必要としました。さらに、《今後の「想定」への対策》として、数千年単位での巨大津波の発生を確認するには、地震学だけでなく津波堆積物調査などの地質学、考古学、歴史学等の統合的研究の充実が重要と提言したことは、当に「先人の教え」を真摯に受け入れようとするものと考えられます。