危機管理業務部 主任研究員
 三宅 丈也


 「防災」とは、災害の未然防止、被害の拡大防止、災害の復旧(復興)の3つをいいますが、最後の復旧・復興についてはどうしても「民」よりも国や自治体など「官」がするものというイメージがあります。また、復旧・復興は災害が発生して対応中の段階から収束段階に掛けて具体化してくるものであるためか、なかなか平素は具体的に考えるまでには至らないのが現状です。
 日本人は永い歴史の間に、様々な人たちが、様々な場所で、様々な災害に見舞われてきました。しかし、決して災害に負けることなく立ち上がって今の繁栄をもたらしてきました。今回は、『先人の教え』の最終編として、これまで幾多の災害から立ち上がってきた実例を紐解いて、日本人が如何に災害と付き合ってきたのかをみたいと思います。

 時は江戸時代、天明の大飢饉や田沼意次失脚などの頃、浅間山では有史以来最大と言われる大噴火がありました。天明3(1783)年7月7日夜遅くに大噴火を起こし、岩石を吹き飛ばし噴煙を吹き上げました。火砕流は有名な「鬼押し出し溶岩」を作り出し、軽井沢では直径30cmもある軽石が飛んできて怪我をしたり即死する者が続出し、その熱い火山岩によって多くの家屋が焼け落ちたりしました。しかし、浅間山に近い沓掛宿(現中軽井沢)や追分宿では繰り返す小噴火などから危機を感じたのか先ずは老人、子供を逃し、家財を牛馬に積んで7日の夕方までには住民全てが避難を完了したため死者は皆無でした。早い判断が決めた成功例です。
 また、大噴火の翌日8日、前日の噴火によって引き起こされた土石流のために一つの村が5〜6mの高さの土石に丸々埋まってしまいました。これが東洋のポンペイとも呼ばれる鎌原(かんばら)村の被害です。当時、家屋118軒、人口570名の鎌原村は、この土石流のため実に477名が亡くなってしまいました。危険を察知した村人たちは、慌てて村の唯一高台にある鎌原観音堂に逃げ登りましたが、避難し助かったのは93名のみでした。この観音堂の階段は現在15段ですがもともと50段あり、昭和54(1979)年の発掘調査の際には埋まっていた石段から若い女性と年配の女性の2体の白骨が発見されました。母を背負った娘だったのかもしれません。この生死の分かれ道というものは何に起因するものなのでしょうか。
 なお、この一村を飲み込んだ土石流は吾妻川に流れ込んだ後に利根川を経て、約300km以上離れた千葉の銚子から太平洋に黒い泥流を流し出したのです。
浅間山周辺地図


《鎌原村の復旧・復興について》
〆匈恩紊垢亜近隣有力者が被災者に自費で食糧や宿泊所を提供(民)
 ⇒ 村の有力者もほとんどが亡くなって村としては機能不全に陥るが、近隣の3人の豪農たちが被災者たちに自費で食糧を与えるとともに自らの家屋敷などに泊めた。

被害の視察・検分後、幕府が金を出して田や街道を復旧(官)
⇒ 幕府は食費を鎌原村に支給するとともに、御救普請(おすくいぶしん)として荒廃した耕作地の掘り
起こしや街道の復興工事に鎌原村の住民や近隣の村々から人を集めて充たらせた結果、わずか5ヶ月で復旧しました。また一人につき17文(450円程か)の日当が支払われたため全国が飢饉のおりながら、何とか冬を越して生き残ることが出来ました。被災者の生活支援を兼ねた公共土木事業の側面を担っていたのです。

B爾虜瞳(復旧・復興)(民)
⇒ 村にある全家屋が倒壊などして、耕作地も9割以上が荒廃し果てた上、村人の83%以上が亡くなる等、壊滅的ダメージを受けた村の再建をどうするのか。
ここに興味深い話が残されています。後に南町奉行として活躍する根岸鎮衛(しずもり)が、復興のため現地一帯を視察・検分した際のことを有名な『耳嚢(みみぶくろ)』に書き残していますので、引用して紹介します。“『このような大変な災害に遭い、村に残った九十三名は、思いもかけず一族になったと思わなければいけない』と言い聞かせ、親族の誓いをさせた。やがて家々の普請がなったとき、援助の手を差し伸べた三人の者は酒肴を送り、九十三名のうち夫を失った女には男を、女房を流された男には女を取り合わせ、子を失った老人には子を、子供を失った親は子を養子として組み合わせ残らず家族にした。”
(根岸鎮衛著、長谷川強校訂「耳嚢 上」岩波文庫から引用)

この鎌原村の復旧・復興では、終始「民」が「官」をリードしました。災害に見舞われてすぐに「民」が私財を投じて被災者を助け、その後「官」を動かして「お金」と「仕事」を被災者に提供させたのです。そして最後には、たったの16%しか残らなかった村民たちを「民」が説諭して新たなパートナーを組み合わせ見事に村を再建したのでした。確かに、配偶者や子供を亡くした者に新たに配偶者や子供を組み合わすなど合理的な面もあるとはいえ、現代ならば「○○ハラスメント?」的な施策かもしれません。しかし、災害から半年足らずで10組が夫婦として祝言をあげるなど、失った者同士を補完しあって新たな家族を作ったことにより、村が存亡の危機から救われたのも事実なのです。
この鎌原村は、災害から235年を経た現在でも、村人を救った観音堂を中心として土石流の土砂の上、妻恋の地に残っています。そして、火山災害から多くの村人を救った観音堂は厄除け信仰の対象となり、奉仕会の方々が交替でお堂に詰めて先祖供養を今も欠かさず行っているそうです。

先人は、様々な災害に直面して自らが多大な被害を被りつつも、後の世の私たち子孫の為に有形・無形の様々な形で「防災」、「減災」等の教訓を残してくれました。このシリーズにおいて、いくつかご紹介をしてきましたが、危機管理上の参考の一助にでもなりましたら幸いです。これをもちまして、「先人の教え」シリーズを終えたいと思います。