危機管理業務部 主任研究員
 山之内 裕

 東日本大震災から既に1年3ヶ月が経過しましたが、未だに避難所や仮設住宅、あるいは故郷から遠く離れた地で、耐乏生活を強いられている方々が大勢いることに、悲しい思いを感じます。当時の新聞の縮刷版や震災の記録などを目にすると、目頭が熱くなるのは私だけではないでしょう。
 今回から数回にわたり、東日本大震災で私が実際に避難所生活を体験して感じたことなどをご紹介します。

【地震発生…】
 平成23年3月11日、私は防災関係のセミナーに参加していました。セミナーは、内閣官房、青森県、岩手県の3者が共催して、青森県八戸市で行われていました。会場は、海岸から離れた丘の上にある立派なホテルで、結婚披露宴が似合いそうな大広間でした。
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<セミナー会場>

 セミナーは午後1時半から予定通りに始まりました。開始から1時間余りが経過した頃に、あちらこちらで携帯電話の受信音が鳴り(この時は「緊急地震速報」の受信音とは気が付きませんでした。)、セミナー中なのにマナーモードにしていない人が多いな、と不快感がありましたが、突然の大きな揺れにビックリすると同時に、そんな不快感などどこかに飛んで行ってしまいました。
 天井の立派なシャンデリアや壁面に付けられた大きなスピーカーが激しく揺れ、今にも落下しそうで、恐怖心を煽りました。咄嗟に机の下に潜ったのは、私を含め2〜3人でした。全員が防災関係者でしたが、机の下に潜るのは不正解だったのでしょうか…。実際は2分46秒程度の揺れの長さだったと聞いていますが、5分ぐらいの長さに感じました。
 当然、セミナーは中止となり、自前の自動車で来場していた参加者は火の粉を散らすように帰って行きました。内閣官房の方々は青森県の公用車で、八戸市にある青森県の出先機関に避難しましたが、私のように県外からの参加者約40名は、青森県が借り上げていたバスでJR八戸駅へ向かいました。バスの車中からは、被害の様子は全く見当たりませんでした。
 八戸駅に着き、バスが停止した瞬間、バスは横転するのではないかと思うくらいに大きな揺れがありましたが、なんとか下車しました。

【駅前滞留…】
 JR八戸駅に着いたのは午後3時20分頃でした。改札口は3階にありましたが、立入禁止となっていました。ここで初めて鉄道が停まっていること、停電で道路の信号機が消灯していることを知り、地震の大きさを知りました。
 何度も大きな余震がありましたが、30分くらい経ったころ、立入禁止の表記はありましたが、改札のある3階へ行ってみました。何人かの人が茫然と外を眺めていましたが、列車の来る様子は全くありません。
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<JR八戸駅3階改札付近>

 上の写真のように、植木が無残に倒れ、トイレも使用禁止となっていました。どこかに座れるような場所はないかと探しましたが、残念ながらベンチや椅子は見当たりませんでした。時折の余震に少しの不安を感じながら、1階へ降りて駅前滞留の開始となりました。
 駅前で滞留している人は50〜60人と見られましたが、駅前をウロウロしているうちに、停電で暗くなった食堂や喫茶店に多くの人がいることが分かりました。おそらく、200人位は滞留していたと思います。
 駅から鉄道で帰宅する学生さんなどは、親や知人が車で迎えに来て、次第に少なくなり、滞留している人は私のような遠方からの「よそ者」だけが取り残されていくことに不安が募りました。
 そんな中、偶然にセミナーで一緒だったUさんと遭遇したことは、不安の中に一抹の安堵感を覚えました。余震の続く中、小雪まで降り出し、話し相手もいなかった私が、知っている人と話すことのできることが、これほど安心感を生み出すかを実感した一瞬でした。

 次回は、「避難所」です。(つづく)