危機管理業務部 主任研究員
高橋 静
私は、60歳を迎えた年の2010年9月4日、長年の思いを果たすため、群馬県上野村に行き、慰霊の園にある慰霊塔を訪れ、日航機墜落現場である御巣鷹の尾根への慰霊登山を行いました。
この慰霊登山は、8月12日に行いたかったのですが、ご遺族や関係者の方が25周年に大勢参列されることが予想されたので、あえて違う日を選びました。
その前日、私は新潟県庁(※弊社に入社する前は、新潟県庁の危機対策課に勤務。その前は、陸上自衛隊に所属。)での勤務を終えた後、同僚に行動予定を伝え、一人車で夜8時頃に新潟市内の宿舎を出発し、途中のサービスエリアで仮眠をとり、関越自動車道から上信越自動車道を通り、上野村に着いたのは朝の7時頃でした。
上野村に入り、「慰霊の園」の案内板に従って進みましたが、早朝であり、訪れる車もなく、晴れた青空の中、一人ゆっくりと当時のことを思い出しながら参拝しました。
1985年8月12日は、私が自衛隊の学校を卒業し、群馬県にある第12師団司令部第3部防衛班長(災害対策担当)として着任した日でした。
東京空港事務所長からの災害派遣を受領、当初長野県の北相木村に前進し、早朝に群馬県上野村に墜落したことが判明したことから、現地指揮所が上野村小学校に設置され、その中で勤務することとなりました。しかし、当時の私は着任したばかりで、周囲の人の顔も立場も理解できず、混乱した中で災害対策担当幕僚として悪戦苦闘していた日々の事を思い出しました。
<慰霊の園>
慰霊の園でトイレに寄った際、25年の月日の流れを感じることなく清潔な状態が維持されていることに感心するとともに、地元の方々の心配りを感じました。
慰霊の園をあとにし、墜落現場である御巣鷹の尾根へ向かうため、案内看板に従って細く勾配のある曲がりくねった道と長いトンネルを何本も通り進みました。
当時この道はなく、自衛隊の災害派遣部隊は、地上から山道を切り開きながら毎日墜落現場まで山を登っていましたが、私は現地指揮所勤務だったため、現場に出ることがなく、その苦労は知りませんでした。その反面、現地指揮所の中で情報もないままに日々の報告書を書いており、毎日上司に指導を受ける事が多く苦痛を感じていました。
ある日、「現地を見たい」と直訴してヘリで現地に入り、ようやく自分の目で確認したことを基に報告書を書くことが出来るようになりました。
昔を思い出しながら、対向車もない静かな山道を走っていたところ、突然「バーン!」と激しい音がしたため、車を道路脇に止めて外に出ました。
外に出ると、右前のタイヤから勢いよく空気が漏れる音がしていました。タイヤが道路脇の泥の上だったので、少し車両を移動してタイヤを舗装道路の上に移動させ、タイヤ交換の準備をしました。山の中では携帯電話は使用できず、通る人もいませんでした。「自分でこの状態を乗り越えなければ」との思いから、初めて補助タイヤを取り出し、不安な気持ちで交換しました。このまま引き返すかを考えましたが、長年の思いを達成するため、そのまま登山口まで車を走らせました。
車で登山口に向かって走り出すと、所々に石の塊が落ちているのが目につき、注意しながら走行し、登山口に到着しました。車を止め、御巣鷹の尾根に向かって登山を開始しました。
<登山道入口>
登山道は、登山口から昇魂之碑がある場所まで整備されてはいますが、勾配もあり、ご年配の方などにはきついのではと感じられました。
途中にいくつか道が分かれており、亡くなられた方々の碑が諸所に建てられ、簡単に来られる場所ではないにもかかわらず、花が飾られており、25年の歳月が流れてもご遺族の思いが伝わってきました。
そして、昇魂之碑が建つ場所に到着し、一人、25年前にヘリで降りた時のことを思い出しました。
あの時、御巣鷹の尾根に作られた仮設ヘリポートに降り立つと、捜索関係者や報道関係者等が一斉に注目する中、墜落現場一帯を歩いて報告書に記載していた要図と比較しながら見て回りました。その時には既に1週間が過ぎており、捜索隊の活動は、生存者の捜索からご遺体の一部や遺品捜索に移っていました。1週間が過ぎても死臭が漂い、捜索隊は過酷な環境の中、虫が集まっている付近を捜索しながら、ご遺体の一部を丁寧に収容していました。毎日捜索結果をまとめて報告書に記載していましたが、ある時点から捜索結果の合計が520名を超えていったのを思い出しました。
今は、あの時とは違い、青空が広がり、清々しい風が心地よく吹いていました。
昇魂之碑に手を合わせ、ゆっくりと周囲を回りながら小さな祭壇の中に入り、亡くなられた方々の写真の前で手を合わせ、ご遺族の25年間の思いに接しました。
当時は自分の任務を遂行する事に精一杯でしたが、災害派遣や自治体での災害対策活動は、被災者の気持ちに寄り添って活動することが大切であると改めて再認識しました。
<「昇魂之碑」の前で>
「危機は、時期・場所を選ばず」ということを思い知らされ、私の人生にとってのターニングポイントとなったのが、この「日航123便の墜落事故の災害派遣」でした。
あれから27年が過ぎ、これまでの間に多くの災害や危機に遭遇し、大きな仕事の担当者に付くことがありましたが、常に日航機事故の災害派遣活動時のことを思い出しながら乗り越えてきました。
これまでに私が経験したことを社の防災・危機管理支援業務等に活かすとともに、少しずつではありますが、今後もご紹介していければと考えています。