危機管理業務部 主任研究員
山之内 裕
※「東日本大震災で避難所生活を体験して…(その1)」のつづき。
「その1」は、2012年6月4日付の記事を参照ください。
【避難生活の始まり…】
午後5時頃、Uさんと不安を共有しながら、このまま夜を明かすのかな、なんて暗い話題にならざるを得ない会話をしていると、消防車が2台、駅のロータリーに到着し、消防士が数名降りて来ました。いつの間にか現れた警察官と何やら話し、すぐに駅前に滞留していた人々に「こちらに集まって、並んで下さい。これから、近くの避難所に案内します。」と、拡声器で話し掛けました。
<消防による避難所への誘導案内>
まさに、神の声でした。小雪の降り続く中、不安を増幅させる余震に怯えながら、停電で暗黒の闇を迎えなければならないという瀬戸際に、一筋の光明を見た感じでした。決して、オーバーな表現ではありません。雪が降る程の寒さ、停電による暗闇、食べ物は勿論、飲料水も無く、トイレも使用できないという状況では、負の感情ばかりが表に出てくるのです・・・。
200人位が並んだでしょうか。消防の方が人員の掌握を始めました。普段、あまり集団での行動に馴染みがない人は、きちんと並ぶこともうまくできないため、消防の方は人数を数えることに四苦八苦していました。
<避難所へ向かうため行列をなす人々>
大まかな人数の確認が終わったところで、「今から近くの三条小学校に避難しますので、端から2列で出発します。」という消防の方の誘導があり、未だ降り続く小雪の中を歩き始めました。
私とUさんは、比較的前の方を並んで歩いていました。200名位の駅前滞留者が、2列になって歩く光景は想像もつきません。多分、4〜500mの長さになっていたのではないでしょうか。
<三条小学校避難所への避難経路図>
上の図の赤線の経路を歩きました。2km弱の道のりを約20分かけて、ゆっくりと歩きました。私の前は、3歳くらいの男の子を抱きかかえた母親であろう女の人が心細そうに歩いています。その母親の荷物は、私を含め周りの男性が少しずつ手分けをして持っていました。
避難所となる「三条小学校」へは、午後5時40分頃に到着しました。避難所となるであろう体育館は鍵がかかり、開いていませんでした。消防の方が、学校にいた職員の方でしょうか、何やら話をしているようでしたが、聞き取れませんでした。
しばらくして、2〜3人の職員の方(学校職員か、市の職員かは判りませんでした。)が体育館の鍵を開けてくれました。いつの間にか日が暮れて周囲が薄暗くなっているため、体育館の中はよく見えませんが、きちんと椅子が整列されているようでした。消防の方と職員の方が、整列している椅子を体育館の壁際に移動し、一面にブルーシートを敷いてから、我々を中に入れてくれました。
誰彼ともなく、壁際の椅子を持って体育館の中に自分の居場所を決めるように椅子を置き、座っていました。不思議なことに、皆はステージ方向を向いて座っていました。薄明かりの中で見たステージには「卒業証書授与式」の横断幕が掲げられていました。「旅立ちの季節」なのだという懐かしい気持ちを、初めての避難所という不安の中で抱いたのは、私だけではなかったと思います。
<避難所到着時の体育館内の様子>
消防と学校の職員が、学校の備蓄と思われる毛布を運んで来てくれました。避難所にいる男性のほぼ全員で、毛布のバケツリレーをしました。また、「八戸西高」のネーム入りのベンチコートが数十枚、配られました。女性と子供には毛布が5〜6枚行き渡ったようです。私は、毛布2枚とベンチコート一着を使わせて頂くことができました。
午後7時頃、体育館には200人位の地元以外の避難者がいます。学校の備品でしょうか、石油ストーブが6個、運び込まれました。無言の申し合わせのように、皆はストーブを取り囲むように6つのブロックに分かれて、整斉と円陣の隊形に移行しました。日本人の律義さをあらためて感じました。
<停電の中、石油ストーブを取り囲む避難者>
午後8時頃、石油ストーブの暖かさと明るさで、なんとなくホッとしているところへ、壁際に長机が運び込まれ、その上にお湯と麦茶が置かれました。そして、拡声器で「おにぎり1個とカップ麺を配ります。」という連絡があり、避難者は息を吹き返した様でした。時々、余震がある中、周辺の住民の方が「おにぎり」を作ってくれたということでした。涙が出るくらいの嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいになりました。この時の「おにぎり」は、塩で味付けしただけの素朴なおにぎりでしたが、今でもあの美味しさは、忘れられません・・・。
(つづく)