危機管理業務部 主任研究員
高橋 静
2011年3月11日、私は、新潟県庁(※当社に入社する前は、新潟県庁の危機対策課に勤務。その前は、陸上自衛隊に所属。)から休暇をいただき、退職前の準備のため、私有車で新潟市から実家のある山形市に向かっていました。
同日14時46分頃は、国道113号線の小国町付近を走行していましたが、粉雪の舞う悪天候だったために運転に集中しており、地震に全く気が付きませんでした。
しばらくして飯豊町にある道の駅で休憩したとき、人々がテレビに集まっていたので、私も何気なくそのテレビを見ました。そこに映し出されていたのは、大津波により漁船が大きく揺れている映像でした。直後、急いで新潟県庁に電話したところ、宮城県庁に行くよう指示を受けました。しかしながら、私有車で宮城県庁に向かうことはできませんでした。
停電で信号機も機能していない渋滞の道路を走行し、夜遅く山形市内の実家に着き、ガソリンスタンドを探しましたが、ガソリンを入手できないまま、翌日の早朝、新潟県で発生した地震(長野県北部地震)のため新潟県庁に戻りました。
3月13日午前中、県庁職員3名が交代要員として、緊急通行証を持参した県庁の公用車で宮城県庁に向けて出発、同日午後から宮城県庁講堂に設置された「宮城県災害対策本部事務局」で3月15日まで勤務しました。
宮城県庁での勤務については、様々な経験を通じて災害対策本部の勤務に関する多くの教訓を得ることができました。

<東日本大震災時の宮城県災害対策本部事務局>
前置きが少々長くなってしまいましたが、今回は、表題にもあるように「自衛隊が約20年前から東日本大震災への準備を開始していたこと」も踏まえ、災害対応の在り方等について記載していきたいと思います。
今から20年前の1992年、私は東北方面総監部で、防衛と災害を担当する部署で運用班長の職についていました。
ある日、防衛課長と共に東北方面総監陸将から直接指示されたのが、「明治三陸大津波からもうすぐ100年が経つ。東北方面隊は、自治体と協力して津波対策に着手する。」といことでした。
当初はどこから初めていいかわかりませんでしたが、総監から自治体と一緒に津波を知ることから始めるよう指導されました。
まず、研究段階として、当時東北大学の津波災害の権威であった首藤教授に「津波についての講演会」を依頼し、自衛隊と岩手・宮城両県の防災担当者と合同での現地研究を計画しました。
現地研究のコースは、過去に津波の被害を受けた地域で実施することとし、チリ地震津波の被害を受けた宮城県志津川町(現南三陸町)、昭和三陸大津波の被害を受けた岩手県宮古市・田老町(現宮古市)、建設中の最新設備を有する国家石油備蓄基地のある久慈市を、車両とヘリコプターで移動するものでした。
現地研究の当初、ホテルで首都教授の講演を聞きましたが、衝撃的な内容が多く、津波で火災が発生することや津波の後に村がなくなる話などについて、写真を使い丁寧かつ解り易く講演されておりました。
その後、実際に被災された市町では、防災担当課長さんの話や津波に遭遇した経験を有する住民の方のお話を聞きました。
今でも印象に残っている話は、宮古市の課長さんが「最近、津波避難訓練への参加者が少ない」と説明してくれた点と、被災経験のある田老町の住民の方が「とにかく尾根伝いに必死になって上に逃げた」とのお話です。それに対して、首藤教授が色々と質問されていたのを今でもよく覚えています。
ご紹介する写真は、首藤教授が使用された津波前と後の田老町の様子です。

<津波の前の田老町>

<津波の後の田老町>
この現地研究の後、私は転勤しましたが、自衛隊と自治体の共同訓練が毎年継続して実施されていました。
2003年の2月、東北方面総監部の広報室長として勤務していた際、宮城県と東北方面隊共同による大掛かりな津波対処訓練に参加しました。
仙台の方面総監部と宮城県庁での図上訓練、石巻港から海上自衛隊の輸送艦で部隊を乗せ、仙台空港近くの岩沼海岸にホバークラフトで車両を輸送するという訓練では、大勢の研修者、報道陣を招いて行われました。
ご紹介する写真は、岩沼海岸での訓練風景です。

<ホバークラフトによる車両輸送>
2005年4月、自衛官を退職し、新潟県庁に再就職した後も、2006年7月の中越沖地震での災害対策本部勤務、2007年6月の岩手・宮城内陸地震での岩手・宮城両県への派遣任務、毎年実施している総合防災訓練等を通じて、常に大規模災害への対応等について考えていました。
新潟県庁勤務時代に、県主催の「津波について」の講演会で、首藤教授の話を聞く機会があり、講演前に挨拶させていただき、懐かしい気持ちで講演を拝聴させていただきました。
2011年2月中旬には、東海地震を想定した、実際の物資を使用しての大規模な兵站演習(陸上自衛隊東部方面隊主催)を、新潟県職員として研修する機会がありました。
その際、野外に保管用大型テントを設置し、実際の備蓄食糧や発電機等の資器材を輸送してテント内に保管する要領、燃料用ドラム缶を野外に保管して車両への積載する要領等について研修することが出来ました。
訓練中、雪により車両移動が制約され、到着が計画より1日遅れたために休憩時間を削って対処したという実例もあったようで、実際に訓練を実施することで多くの教訓を得ることができたという話を聞くことができ、大変有意義な研修でした。
この研修会は、富士演習場で終了したため、帰りは御殿場駅から高速バスで帰ることになりました。帰りのバスで、隣の席に東京都の防災担当職員の方と一緒になったので、話をしながら帰ったのですが、話題は、自治体の防災担当職員としての現在の懸案事項についてでした。
その東京都の防災担当職員の方のお話は、「帰宅困難者対策」が目下の懸案事項で、対応策と訓練をどのようにするかを検討中とのことでした。新潟県では、あまり馴染みのない話題だったので、白紙的には「情報提供」と「早い段階で短い区間でも輸送手段を回復させ、人の流れを確保する必要がある」と話した記憶があります。
このような経緯を経て、2011年3月11日を迎えたわけですが、改めて多くの防災担当者は、何らかの形で「東日本大震災への備えを行っていた」のだと思いました。
「危機は、時期・場所を選ばず」ということを思い知らされた過去の経験から学び、少なくとも現時点までに「危機に対する備えを日々行ってきた」のだと感じています。
今回ご紹介したお話を踏まえて私がお伝えしたいポイントは、「組織のトップ(指導者・指揮官)の職責として、震災の歴史から学び、組織の向かうべき方向を示し、それを継続して実行しうる体制を維持すること」です。
また、東日本大震災の被災現場に立ちあった者として、津波災害の恐ろしさを後世の人々に伝え、二度と同じ悲劇を繰り返さないように努めていくことが、私の職責だと思っております。
下の写真は、2011年3月15日午後、応援に駆け付けた各県の職員で現地を調査するため、仙台東部道路を利用して仙台空港まで行く際、仙台東インターチェンジ付近から見た仙台市若林区荒浜付近の被災状況です。(見渡す限り、同じ光景が広がっていました。)

<仙台市若林区荒浜付近の被災状況>
これまでに私が経験したことを社の防災・危機管理支援業務等に活かすとともに、少しずつではありますが、今後もご紹介していければと考えています。