危機管理業務部 主任研究員
 山之内 裕

※「東日本大震災で避難所生活を体験して…(その3)」のつづき。
 「その3」は、2012年11月19日付の記事を参照ください。



【時の経過をひたすら待つ…】
 避難所二日目のお昼に近隣の方々の心のこもった手作りの「おにぎり」を頂いて、少し寝てしまったようです。
 午後2時頃に目が覚めて、運動を兼ねて駅の向こう側まで行って、何か食料などを調達できれば幸いと思い、避難所から歩き出しました。
 駅の中を通れば、避難所から駅の反対側までは意外と近い距離でした。途中、人っ子一人いないゴーストタウンのような雰囲気に、少しの恐怖心が生まれました。停電のため信号機は消灯し、駅前のコンビニも閉店し、街に動きはありませんでした。
 駅近くの酒屋さんの入り口に「停電のため自動扉を手で開けて下さい」の貼り紙があったので、開けて中へ入ってみました。中年の夫婦が営業を続けていました。「こんな時に店を閉めていたら、困る人もいると思い営業している」とのことでした。飲み物とお菓子類を買いました。電動のレジスターが使えないため、乾電池で使える電卓でのレジでした。
 レジ袋を提げて、避難所への帰り道も誰にも会いませんでした。やはり、人気(ひとけ)のない住宅地は異様な雰囲気です。

 午後3時頃、缶コーヒー2缶、小さいミルクティーと飲料水のペットボトルを各1本、南部せんべいと普通のおせんべい(トマト味)各1袋を持って避難所に帰って来ました。
 避難所では、それぞれ自分の居場所は固定されていて隣近所も変わりなく、「ご近所付き合い」的な連帯感が生まれています。私の円形のシマには、30代と思われる女性が3歳くらいの男の子を連れて避難していました。男の子に「おせんべい」をおすそ分けしたり、隣の会社員風の男性に缶コーヒーをあげたりして、連帯感の強化を図りました。この男性と名刺交換しました。男性は仙台市から出張で八戸へ来ていたEさんです。Eさんの会社は仙台市の若林区にあり、大きな被害が出ているようで、会社とも連絡がつかずに不安なようです。

 午後4時頃、日赤の救護班が巡回診療(?)に回って来ました。医師と看護師が2名ずつでした。Uさんが持病の薬の処方をお願いしましたが、身分証明と受診が必要だ、と言われました。Uさんも出張で来ているので、持病があるとはいえ、余分に薬は持って来ていないようです。公的機関の職員なので身分証明書が有効なのですが、姓を変えてから身分証明書の変更をしていないということで、役に立たないそうです。結局、保証金を1万円程度支払って、実費で受診(タクシー代を含めて2万円以上)することになったようです。こんな時なのだから、日赤からUさんの行き付けの病院に連絡して確認をとり、薬の処方はできないものだろうか、と少し不満が残りました。
 Uさんが病院に出かけた後、近傍の歯医者さんから「歯ブラシ」と「マスク」が寄付されました。Uさんの分も確保しておきました。避難所の人数分の寄付は、歯医者さんといえども、大散財に心から大きな感謝でいっぱいになりました。

 ひたすら、時の経つのを待っていました。
 午後5時過ぎ、再び近所の方々の手作りの塩おにぎりと吸い物を頂きました。Uさんの分も確保しましたが、吸い物が冷めるのが気にはなりましたが、仕方がありませんでした。Uさんが病院から帰って来たのは午後6時半を過ぎていました。既に夕食は無いものと覚悟して、お菓子を買って来たようでしたが、塩おにぎりと冷たくなった吸い物を美味しそうに食べていました。
 昨夜は小雪が散らついていましたが、この夜は昨夜より寒さを感じました。ストーブは、市の職員の方々に24時間石油の補充をして頂いたおかげで、消えることはありませんでした。にもかかわらず寒さを感じるのは、気の持ちようでしょうか。

 午後8時頃、明後日の大事な会食をキャンセルすることを決心しました。この時まで決められなかった原因は、震災の大きさが実感できずに、なんとか今すぐにでも帰れるという気持ちが残っていたからでしょう。更に、東京の様子が全く分からずに、帰れば会食はできると思っていたのです。
 避難所(小学校)の職員室の前にある公衆電話(ピンク電話)で明後日の会食会場に電話をしました。電話機の横には大量の10円玉が用意されていました。多分、市の職員の方が用意してくれたのでしょう。ここでもまた感謝です。避難所で過ごし始めてから、何度感謝の気持ちが湧いたことでしょう・・・。電話口の会食会場の人は、良く知った人でした。私が東北で避難所にいるとは思ってもいなかったのでしょう。ホントにびっくりした様子でした。また、東京も大きく揺れて、店も営業できていない、ということでした。私が震災後、初めて知った東京の様子でした。東京も被害が出ているかもしれないという情報は、私を不安にしました。

 午後9時頃、夜食でしょうか、お弁当が配食されました。ほとんどの人は食べていましたが、そんなにお腹が空いていなかったので、この時は食べませんでした。
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【配食されたお弁当】

 午後10時頃、男の子を連れている女性が、子供の服を洗濯して干す場所を探していたので、椅子を横にして椅子のパイプを物干しにすれば、と教えました。
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【横にした椅子の物干し】

 もう午後11時です。昨夜のイビキ男は昼間に避難所を出て行ったので、静かに眠ることができると思いましたが、東京の様子が気になって眠れませんでした。
 ウトウトしたり、天井を見つめたりして、ひたすら時の経つのを待っていました。NHKのラジオが、JRは明日も運行見合わせを決定した、と放送しました。明日も帰れない、と諦めました。何の覚悟かはわかりませんが、なんとなく覚悟が出来ている、と感じました。
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【夜間の避難所内の様子】

 (あれからもう2年が経ちました。つづく・・・)