危機管理業務部 主任研究員
山之内 裕
※「東日本大震災で避難所生活を体験して…(その4)」のつづき。
「その4」は、2013年4月8日付の記事を参照ください。
【 Back to Tokyo 】
避難所生活の3日目、朝5時前、天井の照明器が点灯しました。不意の点灯で起こされた不満はなく、明るさが気持ちをゆったりとさせてくれました。
【ようやく点灯した天井の照明】
今まで気づきませんでしたが、ステージの「卒業証書授与式」の横断幕は降ろされていました。
電気が回復したことで、一瞬、JRの復旧に望みが出たと思いました。他の人達は避難所生活に疲れたのか、照明が点いても起きる様子がありませんでした。
午前6時半頃、市の職員の方と近所の方が朝食の準備を始めてくれました。と同時に、JRの制服を着た方が1名入って来て、振替のバスを6台確保したことを伝えてくれました。そして、首都圏方面に4台、仙台方面に1台、その他に1台を割り当てるため、それぞれの方面ごとに挙手をさせ、人数を数え始めました。ここの避難所での首都圏方面への帰宅者は、70〜80名程度でした。
首都圏方面への計画は、準備が出来次第、八戸を出発し、山形県の酒田駅までバスで行き、そこから18時頃の特急列車で新潟へ、20時頃の上越新幹線で東京着22時頃を予定している、ということでした。
「今から東京を目指す」というメールを知人に送りました。すぐに「頑張れ」という返信があり、頑張る気持ちは復活しましたが、一人暮らしの東京の自宅は家具や電化製品が散乱しているのでは、という不安もあらためて湧き出しました。
バスは「八戸西高」を午前8時に出発予定ということで、避難所から700m弱の距離があるため、避難所を7時半に出発するということでした。
早々に朝食を頂きました。いつもの塩おにぎり1個とお味噌汁でしたが、これが最後かなと思うと、近隣の方々の親切が身に染みました。この避難所は「よそ者」の避難所なので、市は勿論、近隣の方々にとっては余計なお荷物であることは間違いありません。そんな中でも、嫌な顔一つせず、親身になって助けて頂いたことに対し、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
朝食後、全員で毛布をたたみ、椅子やストーブなどを整頓し、身の回りの後片付けをしました。ここで、Uさんが見当たらなくなりました。Eさんは仙台なので首都圏方面よりも遅い出発です。Uさんをここで見放す訳にはいきません。避難所出発が7時半という事を知らないのでしょうか。
Uさんが戻って来たのは、避難所出発の5分前。理由も聞かずに、一緒に集合場所の避難所前に走って行くと、案の定、既に整列を始めていました。同じシマだった人の後ろに並ぶことが出来ました。男の子を連れた女性も傍にいました。
ここで、「八戸から首都圏方面へのJRの乗車券を持っていない人」の扱いについて、振替バスに乗れる、乗れない、の議論で10分程時間を要しました。避難所内での説明時は「乗れる」と言っていましたが、JRの職員間で統一がされていなかったようです。結論は当然のことですが、「乗れる」となり、全員が納得しました。
避難所から八戸西高へは歩いて15分程度で着きました。そう言えば、私が避難所でお借りした「ベンチコート」は八戸西高の名前が刺繍されていました。ここで、また、感謝の気持ちが増えました。八戸西高の体育館には、既に他の避難所にいた人達が集まっていました。我々を含めて200名近い人々が集まっていました。再度の人数確認後、バスに乗車しました。
午前8時過ぎ、いよいよ東京へ向け出発しました。八戸から十和田市を通り奥入瀬渓谷、十和田湖畔を抜け、国道7号線で秋田から酒田への経路でした。約20年前ですが、私は仕事の関係で三沢市に3年間住んでいたので、この辺は初めての土地ではありませんでした。バスの中でUさんや男の子を連れた女性に少しですが観光案内をすることができました。
八戸から最初の目的地の酒田までは結構な距離でした。お昼頃にドライブインに立ち寄りましたが、震災の影響で食料はほとんど売っていない状況でした。お菓子やペットボトルの飲料で空腹を凌ぎながら、バスに揺られること約8時間…。
午後3時半過ぎ、ようやくJR酒田駅に到着しました。バスの降り口で、JRの職員の方が、東京までの「臨時乗車券」とペットボトルのお茶を配ってくれました。それをありがたく頂いて、駅に止まっている特急「いなほ」に乗り込みました。
酒田駅発15時52分、新潟駅着18時05分。疲れていたのか、眠ってしまいましたが、途中の駅からも我々のような避難者が大勢乗り込んで来て、立っている人もいたことを覚えています。また、時折目が覚める時に、窓から見える日本海に落ちる夕日がきれいだったことが印象的でした。
この混み様では、次の上越新幹線も自由席は少なく座席の確保は難しいと思いました。乗り換えも8分という短時間で、皆、走って乗り換えました。新潟駅発18時13分「Maxとき344号」に乗り、Uさんと並んで座ることが出来ました。この混雑の中、席を確保できたことは運も良かったのでしょう。乗ったのは3号車でしたが、Uさんが8号車の売店まで行ってビールを買って来てくれました。1缶でしたが、今まで味わったことが無いほどの美味でした。避難所では忘れていた味でした。
【東京までの経路図】
東京駅20時12分着、やっと帰って来ました。感慨が深い中、自宅の部屋の中の散乱状態が不安・・・。ここで戦友のUさんと別れ、山手線で渋谷方面へ…。
自宅に着いたのは、午後9時頃でした。部屋の中は大きな被害はありませんでした。
棚からCDが数枚落下し、ノートパソコンのカバーに少しのキズが付いていた程度で済みました。
稀代の大震災…。
東京に帰って来て、現地では知り得なかった各地の大きな被害に驚愕しました。
そして、望んでもできない避難所での実体験、人々の温かい心と日本人特有の連帯意識の強さ、色々なことを身を持って学ばせて頂いた3日間でした。
この震災から得られたものは我が国の財産として、風化させてはならないと強く感じています。
(完)