危機管理業務部 研究員
 大木 健司

 私は以前、特別養護老人ホームの施設長等として勤務したことがあります。その時の経験から、老人ホームの「危機管理」について感じたことを記載しようと思います。

 私の勤務していた特別養護老人ホームは、ユニット型(個室)で、最大140名(ショートステイ20室を含む。)が入所できる施設でした。
介護施設イメージ3
< 特別養護老人ホームのユニット型(個室)のイメージ >

 特別養護老人ホーム(介護老人福祉施設)とは、原則として、65歳以上の高齢者の要介護者(要介護1〜5のいずれかの認定を受けた者)に対して介護保険サービスを行う施設です。利用する要介護者に対して、介護サービス計画に基づき、食事・入浴・排泄等の介助、日常生活上の世話、機能訓練及び健康管理等を行うのが主な業務です。
 介護老人保健施設が「在宅復帰」を目的にしているのに対し、特別養護老人ホームは、入所者にとっては「自分の家」であり、事実上「生涯を終えることになる場所でもある」というのが大きな違いと言えるでしょう。
 したがって、入所者は、家族が在宅で介護することのできない障害や病気を抱えている老人ばかりで、認知症率も約70%に及んでいました。人の手を借りることなく、独歩で行動出来る人は、3人に一人ぐらいでした。独歩で行動が出来ても認知症の進んだ方は、自分がどこに居るのかも分からないのが常態ですので、無断で施設を離れてしまう危険性もあり目が離せません。夜間の不眠・徘徊による転倒〜骨折や救急搬送等も時々発生します。
 また、認知症は、痛みや暑さ・寒さを感じなくなる特徴があり、職員が気付かないうちに体調が悪化して重篤な状態に陥ったり、死に至ることもあるため、介護事故として損害賠償問題に発展することもあります。
 食事の介助においても、誤嚥による肺炎に注意しながら、入所者の嚥下能力に合わせて根気よくしなければなりません。異食と言って、食べ物以外の物(オムツやティシュなど)を食べてしまう方もいます。
 自分で寝返りを打つことができない寝たきりの方の体位交換も、褥瘡予防のための大切な仕事です。入浴中の溺死などにも注意が必要です。便秘が続くと腸閉塞を起こすことがあるので、日常の排便チェックも重要です。
 言わば、老人ホームでは、日常の介護業務そのものが危機管理なのです。

 私は、防火管理者として日常の防火管理や消防訓練等を担当していましたが、施設の実情を把握すればするほど、「火災は絶対に起こしてはならない」と思うようになりました。それは、消防訓練を通じて、「限られた職員で入所者を安全に避難させること」の難しさを実感したからです。
 消防訓練は、消防法において実施が義務付けられており、老人ホームのような特定用途防火対象物では年2回以上実施することになっています。各回の訓練に努めて多くの職員を参加させ、全職員が初期消火、通報、避難・誘導等に精通するのが在るべき姿ですが、1年365日、盆・正月なしのシフト制勤務で職員をやり繰りする老人ホームにおいては、日勤帯で全職員の半数程度、夜勤帯では1割程度しか勤務していません。
 シナリオ訓練ではなく、「実際的な訓練を」と意気込んではみても、入所者を訓練に参加させることにより発生するリスク(避難誘導時の転倒、車椅子からの転落、離設等)を考えると、訓練に参加させる職員・入所者と参加させない職員・入所者に区分した訓練が必要となり、自ずと訓練参加者も訓練時間も少なくなりました。現場の職員も、訓練で介護業務が中断すること自体に迷惑顔だったのが現状でした。
 私はイメージした訓練ができず、如何にすれば効果的な訓練ができるのか自問自答を繰り返しました。初期消火に失敗したら、あとは避難をするしかありません。しかし、一人の職員が一度に避難誘導できる入所者は、せいぜい2〜3人です。寝たきりの人の移動手段としてリクライニング機能付の車椅子を利用しますが、この車椅子に安全に移乗させるためには、2人での介助が必要です。停電でエレベーターが止まれば、2階以上の入所者は、屋外通路と非常階段を使って避難することになりますが、車椅子では階段を降りられません。実際的な訓練をしようと思えば思うほど、不安だけが大きくなります。ワンフロアー40〜60人の入所者を迅速に避難させるために、いったい何人の職員が必要になるのかを考えただけで恐ろしくなります。特に夜間は、10名前後の夜勤者しかいないのです。
 近年でも、長崎県大村市のグループホーム(平成18年、死者7人、出火原因:加湿器)や群馬県渋川市の老人ホーム(平成21年、死者10名、出火原因:タバコの不始末)、札幌市のグループホーム(平成22年、死者7名、出火原因:石油ストーブ)等、高齢者が犠牲になった火災がありましたが、老人ホーム等で夜間に火災が発生すると、少ない職員で大勢の入所者の避難誘導を行わなければならないため、必ずといっていいほど悲惨な結果となります。
 そこで、私の出した結論は、リスクを承知のうえで形式的な訓練を行うよりも、火災を絶対に起こさないための「予防を徹底する」ことでした。

 今回は、老人ホームを例に「危機管理」について考えてみましたが、我々の周りには必要であっても実際には出来ていない(やっていない)ことが沢山あるのではないかと思います。
 毎日の業務に危機管理意識を要求される業種においては、火災や自然災害などの「万が一に備える!」ための教育や訓練ももちろん大切なのですが、先ずは、十が一、百が一、千が一の事前の危機管理を徹底することが現実的かつ実際的であるという、老人ホームでの勤務で得た経験を糧に、弊社の防災・危機管理支援業務に日々汗を流している次第です。