危機管理業務部 研究員
 齋藤 芳

※「海外における危機管理について考える(その4)」のつづき。
 「その4」は、2014年10月20日付の記事を参照ください。



 日本では義務教育で英語を学びますが、海外に行った時に一番の問題として挙げられるのは、その国の言語、あるいは語学力ではないでしょうか。

 私が自衛官時代にPKOで派遣されたインド洋に面する東アフリカのモザンビークは、旧宗主国がポルトガルということもあって、普段は全く馴染みのないポルトガル語が主な言語でした。英語は、現地の人にはまず通じませんでした。また、派遣された国で英語が公用語の国もありましたが、国ごとに訛りが強く、全く聞き取れない英語もあり、苦労した思い出があります。
 しかし、それはまだ良い方で、一部の国では、将校以外は英語を皆目話せない兵士もいて、調整の際は身振り手振り、日本を出る時に持っていった日葡会話集は手放せませんでした。

 ある日、仕事(輸送調整)でモザンビークの首都マプトにあるマプト国際空港にいた時、30人程の反政府組織モザンビーク民族抵抗運動(RENAMO=レナモ、まだ武装解除されていない一団)が私に近づいてきて、聞いたことのない言語で話しかけてきました。何と言っているのか聞き取れなかったので、「Who Can Speak English?」と聞くと、それぞれが分からない言葉で喚きだしました。挙句の果てに、彼らがそれぞれ持っているライフルや機関銃の槓桿(こうかん:銃に弾を装填する装置)を引き、引き金に指をかけ、いつでも銃を撃てる態勢をとりはじめました。それを目にした時、急に自分の危機意識が目覚め、「これはやばい!」と思って咄嗟に「静かにしろ!」と英語で言ったつもりが、口から出た言葉は得意の韓国語で「가만히 있어!」(カマニイッソ!じっとしてろ)」と叫ぶと、少し離れた所に立っていたザンビア軍の軍曹が、「어떻게 했어요?(オットケヘッソヨ:どうかしたの?)」と近づいて来ました。
 ザンビア軍の軍曹に聞けば、彼の国には前に北朝鮮の軍事顧問がいて、下士官になるための必須科目であった韓国語を習ったとかで、彼に私の話す韓国語を現地の言葉に通訳してもらいました。ちなみに、彼はザンビアやモザンビークにいる9部族の言葉と公用語の英語と少々の韓国語を含めた計11言語を話せるということでした。
首都マプト空港で警備のザンビア兵と
< 首都マプト空港で警備のザンビア兵と >

 彼の通訳によると、銃を持った兵士の一団は、3日前に地方都市から首都の空港に武装解除のため飛行機で連れてこられたが、各国の入り混じる国連組織の複雑さゆえ、次の担当部署に引き継ぎもなく、宿舎や食事の調整もしないまま、空港の片隅で待たされていたとのことで、「腹が減った。我々はどこに行けばよいのか?」とイライラしながら携帯無線機を持っていた私に近づいて来たとのことでした。
 全く部署の違う私にはわかるはずもなく、とりあえず腹の足しにと車に積んでいた非常用の菓子を持って来ると、「チャンコン、チャンコン(現地の言語で「食べ物」)」と喜んで握手をされ、事なきを得ました(その後、彼らは地上輸送部門が引き継ぎ移動しました)。

 この時、語学力の大切さを本当に痛感した次第です。
 前にも書きましたが、単語の聞き違いから射殺された事件などもあり、このような体験から、海外に出る際には、出来ることなら英語やスペイン語、中国語などをある程度は勉強しておく、あるいは辞書くらいは用意しておく(今日では、スマホなどでこれら言語の翻訳アプリなどがあるかもしれませんね。)と、いざ危険な状況に遭遇した際の助けになろうかと思います。
 ちなみに、当時のアフリカでは日本語は全く目にしませんでしたが、諸国の看板には上記の言葉は表示されていました。
 また、(モザンビークの銀行に行ったことはないですが、)経済にも同じようなことが言え、現地で通用するお金はドルか南アフリカのRand(ランド)紙幣、モザンビークのmetical(メティカル)でした。

 余談ですが、当時のモザンビークの商店等の経営者にはインド人か中国人が多かったようです。私がインド人の経営する店に宝石の原石を購入に行った際、南京錠がかけられた扉を何度も通りながら地下室に案内されました。薄暗いがらんとした地下室の真ん中には机が一つあり、経営者のインド人が座っていました。
 そのインド人が机の中から宝石を取り出すのを見ていると、引き出しの中には、宝石とともに弾の装填された回転式拳銃がいつでも取り出せるように置いてありました。まるで、ギャング映画のワンシーンのようだったのを今でも覚えています。

 次回は、「人種差別にまつわる話」をご紹介します。