代表取締役社長
山本 忠雄
山本 忠雄
※「「平成28年熊本地震」現地調査レポート〜被災地で「備え」について考えたこと〜(その6)」
のつづき。「その6」は、2016年9月26日付の記事を参照ください。
14:30頃 益城町役場
我々が行った時には、益城町役場の庁舎は倒壊の危険があるということで立ち入り禁止となっており、庁舎の前では建設業者によるがれきなどの片付けが行われていた。
庁舎に連接する駐車場にはテントが立ち並び、町職員やボランティアによる救援物資の配給、地元の第42普通科連隊やNPOキャンパーによる炊出し、熊本青年会議所の幟が立つテントでは「名古屋名物みそかつ矢場とん」の提供などが行われていた。また、県南地区商工会青年部による「人吉温泉シャワー個室」の看板が貼られたテントもあった。この周辺も大変大きな被害が出ていたが、商工会議所には救援物資が沢山あったし、市場風の八百屋なども営業しており、町の人達の表情も暗いようには見えなかった。どこから来たのか、若い女性2人が「この辺りの避難所はどこか」と我々に尋ねてきた。家族のことを探しているようであった。近くにいた町の職員を紹介し、総合体育館への道順を教えてもらった。
< 立ち入り禁止となっていた益城町役場庁舎 >
< 庁舎に連接する駐車場にはテントが立ち並ぶ >
< 沢山の救援物資が置かれているテント内 >
< NPOキャンパーによる炊き出し用テント >
14:45頃 益城町市街
益城町役場の周辺もそうだったが、町の大避難所となっているらしい総合体育館に移動する間に見た市街地の被害もまた大変酷いものであった。瓦葺の家は殆ど壊れているし、コンクリート造りの寺のお堂もビルも座屈している。墓石が総倒れとなっている墓地、ブルーシートが掛けられただけの住家、所々に積み上げられたガレキ等、何もかも手付かずのままのように見える。
こんなに大きな被害を受けた家は解体せざるを得ないであろうし、また、これだけ多くの建物を解体・撤去するには大変な労力、時間、費用がかかるだろう。東日本大震災から5年以上が経ったが、街の再建は未だ途上である。この町の再建もそれほど長くかかるのであろうか?その間の、ここに住んでいた人達の生活はどうするのだろうか?そのようなことを考え、切ない気持ちになっていた。
< 1階部分が変形し、今にも倒壊しそうな状態の家屋 >
< 墓石が総倒れとなっている墓地 >
< 1階部分が座屈し、完全に押し潰されているビル >
< 所々に積み上げられたガレキ >
15:00頃 益城町総合体育館
益城町総合体育館は、役場から10分ほどの距離の所にあった。
体育館の玄関付近や周辺には、多くの人−避難者と思われる人達、避難者の支援に来ている他自治体の職員や医療関係者の方々、報道関係者などが動き回っていた。
駐車場には多くの車が停まっており、車の中で生活していると思われる人もいた。所々の駐車スペースにペットボトルや自転車などが置いてあったので不思議に思い、何かと考えたら場所取りなのではないかと思いついた。昼は車で仕事などに出かけ、夜は帰ってきて体育館や車の中で眠る。そんな生活をしている人がいたのかもしれない。
< 駐車場に停めた車やテントで避難生活を送る人が多い >
この避難所の支援体制は、これ以上のものはないのではないかと思われるようなものであった。
体育館の傍の芝生広場には、広域社団法人Civic Force(シビック・フォース)とピースウィンズ・ジャパン(PWJ)が共同で設置した災害用避難テントが30張り以上、グラウンドには、登山家の野口健さんと岡山県総社市、医療支援のNPO法人「AMDA」が設置、管理に協力したという、キャンプ用テントが一面に張ってあった。
< 体育館傍の芝生広場に張られた災害用避難テント >
< グラウンド一面に張られたキャンプ用テント >
また、簡易トイレは屋外ではあったが、沢山設置されていたし、日本赤十字社兵庫県支部や徳島県支部の方々が救護所を開設するなど、多くの医療関係者や保健師などによる医療救護や健康相談等の活動も行われていた。
< 日赤兵庫県支部や徳島県支部が開設した救護所 >
体育館のフロアでは、中学生を含むボランティアの人達などによる物資配給が行なわれ、ビニール袋を手に植え込みや駐車場などのゴミ拾いをしていた一団もあった。
また、体育館の玄関先では、どこから来たのか分からなかったが、理容師さんが避難者への散髪のボランティアをしていた。
< 物資配給が行われている体育館のフロア >
< 避難者を散髪する理容師(ボランティア)の方々 >
自衛隊は、給水、給食、入浴などの支援のため、多くの部隊が来ていた。
自衛隊の入浴支援は、地元の陸上自衛隊第8師団のほか、海上自衛隊大湊地方隊が入浴施設を開設していた。海上自衛隊の入浴施設は珍しかったし、大湊から来ているということもあって、受付をしていた女性自衛官2人に声をかけた。自分は陸上自衛隊出身者であること、むつ市の脇野沢で沖を通る海上自衛隊の船を見ながら育ったことなどを話したら、懐かしそうに、親しみを込めて対応してくれ、ぜひ風呂に入って行くよう勧めてもくれた。
なお、彼女たちの話によれば、海上自衛隊は入浴セットを装備していなかったのだが、東日本大震災後に各地方隊に1個セットずつ装備されたのだそうだ。
< 入浴支援を行う地元の陸上自衛隊第8師団 >
< 入浴施設を開設した海上自衛隊大湊地方隊 >
体育館の中では、あちこちに掲示板を設置して必要な情報を提供していた。掲示されていた情報は、「生活支援情報(新聞)」、「益城町安心メールの登録案内について」、「災害ボランティアセンターの開設について」、「生活不活発発病の予防ポスター」、「車両型郵便局営業のお知らせ」、「診療時間のお知らせ」、「県営住宅無償提供のお知らせ」、「熊本県危機管理防災課からのお知らせ」など、住民の避難生活や生活再建に関連するものが盛り沢山であった。
そんな「至れり尽くせり」のような避難所の支援体制であったが、避難者の方々の様子を覗いてみると、体育館の中のあちこちの部屋や廊下に寝具や生活用品を持ち込み、思い思いに寝場所を確保して生活しているように見えた。通路の確保などの統制もあまりなされていないようだ。また、多くの人が寝転んでいる。その中には、若い元気だと思われる人もいる。避難所の運営をどのような組織でやっているのか知ることはできなかったが、少なくとも避難者主体の避難所運営にはなっていないように感じられた。避難者に対する十分な支援体制を構築することは重要なことである。しかし、避難者ができることはやってもらうこともまた同じように大事なことであると思う。私のそのような思い込みが誤りであったのかどうか、やがて明らかになる日が来るであろう。
< 思い思いに寝場所を確保して生活している避難者 >
< 廊下にも寝具や生活用品が持ち込まれている >
次回に続く。