危機管理業務部 主任研究員
 須田 俊彦


 東日本大震災が発生した2011年(平成23年)3月11日、私は仙台駐屯地に勤務していた。約3分以上の長く猛烈な揺れの中、2階の執務室から命からがらグランドに避難した。目の前でガラスが割れて、庁舎の柱が損傷して傾いた。「この世の終わりか」という思いの中、揺れが収まってしばらくしてから我に返り、約4か月間の災害派遣活動が始まった。
 東日本大震災では、自衛官も被災者であり、その中に家族4人を失ったS中隊長がいた。名取市閖上に住み、家族5人で生活していたが、中学2年生の娘さん、奥さん、そして奥さんの両親が津波の犠牲になった。家族の安否確認ができない中、S中隊長は、部下の手前もあって気丈にふるまい、災害派遣の任務に没頭していたが、発災10日後に娘さんが、その翌日に奥さんと義母が、そして3週間後に義父が見つかった。
 涙も見せず、平静を装うS中隊長に、「無理をしないで、今は思い切り泣いてもいいんだよ」としか言えなかった。災害派遣が終了した8月に私が転勤となり、気になってはいたが、連絡が途絶えた状況が続いていた。
 東日本大震災から10年を迎えようとしていた先日、新聞記事の中にS中隊長の元気な写真を見つけた。
 家族全員を失い、失意の中で生活していたが、発災の約1年後に、災害派遣で出動して縁のあった阪神淡路大震災の復興のシンボルとなった神戸の「はるかのひまわり」の種を譲り受け、官舎のベランダや自宅跡地で育て、毎年ひまわりの数を増やしていった。酒浸りの生活から立ち直り、水やりや草取りで心の張りを取り戻したという。
 ある日、自宅で寝ころんでベランダの太陽に向かって咲くひまわりを見上げていた時、天国に通じていて、娘さんや奥さんが上から見てくれているように感じたそうである。また、地元の人からの誘いを受けて、閖上で「語り部」としての活動も始めた。そして、このひまわりの話は、中学の道徳の教科書にも掲載された。
 S中隊長が語り部や中学校などでの講話で話すことは、以下の内容とのことである。
津波が来る可能性がある場合、無駄になってもいいので、遠くか高台に逃げること
一人では生きていけないので、人との繋がりを大切にして、生きたかった人の分も、命を大切にして生きること
当たり前の生活は永遠ではなく、いつ失うかも分からないので、今日という一日を大切にすること 
 私も、縁があって(株)総合防災ソリューションに勤務し、全国の自治体や自主防災組織の訓練などの支援をしているが、災害の犠牲になる人や残されて悲しい思いをする人が少しでも少なくなるように、上記の´➂の内容を積極的に多くの人達に呼び掛けていくことを改めて決意した東日本大震災からの10年目であった。
東日本大震災(震災遺構 旧陸前高田市立気仙中学校)

震災遺構:旧陸前高田市立気仙中学校