危機管理業務部 主任研究員
 米山 則行


 昨年、息子が所帯を持って、埼玉県南東部の某市に新居を構えました。父親である私が防災・危機管理の仕事に就いているということもあって、息子夫婦と一緒にその市のハザードマップを見たところ、市のほぼ全域が赤やオレンジ色に着色されており、江戸川、荒川もしくは中川のいずれかの堤防が決壊した場合、3メートル以下の浸水が予想される地域となっていました。改めて水害の脅威を感じ、南関東平野の水系について、認識を新たにしたところです。
 南関東の水系を考える時、話は縄文時代に遡ります。皆さんは「縄文海進(じょうもんかいしん)」という言葉をご存じでしょうか。
 縄文海進とは、最終氷期(7万年前〜1万年前)後の温暖化に伴う海面上昇と縄文時代の関東平野の地盤が現在より低かったため、海岸線が現在よりかなり内陸にあったというものです。縄文時代の貝塚等海にまつわる遺跡が、埼玉県や千葉県の内陸にも見られるのは、このためです。
 平安時代初期頃までは、現在の霞ケ浦の南側に、龍ケ崎や印西付近まで「香取の海」と言われる鹿島灘に面する入江が形成されていました。また、東京湾北部は、現在の埼玉県中部に至る「古東京湾」が形成されていました。このため、当時の東海道は、伊豆半島もしくは三浦半島から房総半島に船で渡り、太平洋岸を北上して東北地方に至るというものでした。図は現在の地形図に標高5m以下を海面と同じ色で示し、縄文海進における「香取の海」と「古東京湾」をイメージしたものです。
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 平安時代から室町時代の頃までに河川で運ばれた土砂の堆積や関東平野の隆起に伴い、「香取の海」や「古東京湾」は、しだいに陸地(主に湿地帯)に変わっていきました。
 江戸時代、江戸に徳川幕府が出来ますと、江戸の街の整備やその周辺地域の灌漑が進みました。それまで利根川や荒川等の大規模河川の流れは自然のままとなっており、大雨の度に氾濫していましたが、江戸時代になってから、大規模な治水工事が行われるようになりました。
 江戸時代以前は、利根川と荒川は内陸で合流して東京湾に流れ込んでいましたが、江戸時代初期に利根川本流を関宿付近で現在の江戸川と分流し東側に流路を作り、小貝川や鬼怒川とともに取手から銚子を経て太平洋に流すということが行われました。これを「利根川東遷」といいます。また、これに合わせて荒川の流路を利根川と分離して西側に移動させ、入間川と合流させて現在の隅田川を経て東京湾に流すということも行われました。これを「荒川西遷」といいます。これらの治水工事は、江戸を起点とする水上交通路の確保や江戸の街とその周辺を水害から守るという意味合いと江戸防衛のためとの意味合いもあったと言われています。
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 その後も、江戸時代を通じて、関東平野は度々水害に見舞われ、堤防の構築や新たな川の開削など多くの治水工事が行われました。明治時代には江戸川放水路(現江戸川河口域)の開削、大正時代には荒川放水路(隅田川と分離した現在の荒川下流域)の開削や多摩川の築堤、昭和になって中川放水路(新中川)の開削などの大規模治水工事が行われました。
 一方、昭和になって、江東区、江戸川区、墨田区、葛飾区等、荒川の下流周辺の広域にわたり、地下水の過剰な汲み上げによる地盤沈下が発生し海抜ゼロメートル地帯(海抜0m以下)となりました。
 令和の現在に至っても水害防止のため、スーパー堤防の建設、大規模地下放水路・貯水槽の設置、地下鉄・地下街の浸水対策などのハード面から、ハザードマップの整備、広域避難計画などのソフト面まで広範多岐な水害対策が講じられています。
 南関東平野における水系は、度重なる水害とその対策の歴史と言えるかもしれません。
 縄文海進で見られた「香取の海」や「古東京湾」などの地域は、奇しくも現代の河川氾濫時や高潮の際の浸水予想地域とほぼ一致しています。また、埋立地でなくとも大地震の際、液状化が懸念される地域が含まれています。どのような災害対策にも万全というものはありません。時には歴史的な経緯を踏まえ災害対策を考えてみてはいかがでしょうか。