危機管理業務部 主任研究員
 三宅 丈也


 「先人の教え」シリーズは、これまで「先人の教え」、「先人の教え【番外編】」、「新・先人の教え」の各シリーズものとして続けて参りました。今回から「続・先人の教え」シリーズとして新たな気持ちで続けて参ります。
 今回のシリーズでは、これまでとは異なり、特に何らかのテーマなどを設けたりすることなく、思いつくまま、自由に先人が遺してくれた防災に係る教訓などを見ていきたいと思います。

 日本史を紐解きますと、過去、人々の暮らしを一瞬にして奪い去った災害伝承が散見されます。例えば、北から青森県十三湖(じゅうさんこ)西岸にあった十三湊(とさみなと)、群馬県嬬恋村にあった鎌原村(かんばらむら)、大分県別府湾にあったとされる瓜生島(うりゅうじま)などがあります。多くが、海に沈んだりしたものですが、中には今回紹介する帰雲(かえりくも)城の様に地震に起因した地滑りによってその姿を一瞬にして消し去ったものがあります。今回は、この「一夜で消え去った城と城下町」について紹介したいと思います。

 時は江戸時代が始まる前、本能寺に倒れた織田信長に続いて豊臣秀吉が天下の覇権を徳川家康と争っていた安土桃山時代の話です。天正地震(1586年)と云われる活断層に起因する地震が突如として北陸地方一帯を襲いました。当時、豊臣方の上杉景勝と佐々成政の争いが起きており、白川郷にあった帰雲城三代目の城主であった内嶋氏理(うちがしまうじまさ)は、佐々成政側に味方しましたが武運拙く全面降伏となりました。彼は命を助けられ領地も安堵され、久々に城に戻り、領主の無事な姿に歓喜する領民も交えての祝賀会を準備した前夜午後10時過ぎに天正地震が襲ってきたのです。 
その時の描写が、よく表されていますので以下、紹介します。
 “越前から猿楽(さるがく)の芸人を呼び寄せ、宴会や余興の準備も整った祝賀会前夜。人々が深い眠りについた頃、天正地震の激しい揺れに見舞われた。「内ヶ島之前大川有之候、其向に高山御座候而、亦其後に帰雲と申高山御座候、右之帰雲之峰二つに割、前之高山並大川打越、内ヶ島打埋申候、人一人も不残、内ヶ島の家断絶」(『飛騨(ひだ)鏡(かがみ)』)と、城の背後にそびえる帰雲山の山腹が崩れ落ち、前山を乗り越え、川を横切って押し寄せた土砂が、内ヶ島氏理の居城「帰雲城と三〇〇軒余りの家屋が並んでいた城下町を埋め尽くしたのである。
 大阪の貝塚願泉寺(かいづかがんせんじ)住職の宇野主()水(うのもんど)による『貝塚御座所(ござしょ)日記』には、内ヶ嶋の人々は残らず死んで、他国にいて難を逃れた四人が泣きながら帰ってみると、大きな淵になっていたと書かれている。” (中央新書「地震の日本史 大地は何を語るのか」寒川 旭著から引用)
三宅26_画像

 現在も帰雲城があったとされる細部の場所は特定されていません。また、この内嶋氏の領内はこのころ鉱物資源、特に金山に恵まれていたために黄金伝説が遺されており、昭和の最後頃に起きた帰雲城(黄金伝説)ブームをきっかけとして、帰雲城調査会が設立され、)菁現地調査を実施し、学術歴史研究を行い、5雲城の夢やロマンを追い求める、活動が行われています。(「白川郷埋没帰雲城調査会」公式ホームページ 参照)
 この帰雲城調査会の公式ホームページには
 “岐阜県大野郡白川村保木脇(地区)にあったとされる帰雲(かえりくも)城を専門に調査する団体「白川郷埋没帰雲城調査会」公式ホームページを開設して、白川郷埋没帰雲城調査会(以後、帰雲城調査会、調査会、本会、会と記す)の活動や行事を紹介します。2016年 平成28年 5月4日開設、記

 1、白川郷埋没帰雲城調査会とは?
   白川郷埋没帰雲城調査会は、天正13年11月29日(1586年1月18日)天正大地震により埋没した内嶋(うちがしま)氏理の居城、現在も埋っている帰雲(かえりくも)城の場所や遺構を発見する為に、白川村において年1回の現地調査と総会、会合(学術調査研究発表)、宿泊を行っている団体です”(「白川郷埋没帰雲城調査会」公式ホームページから引用)
 と紹介されています。夢とロマンがありますね。興味のある方は是非ご覧いただければと思います。

 ところで、この災害による被害規模はどのようなものであったのかは、当にこの調査会の研究を待ちたいと思いますが、帰雲城と三〇〇軒余りの家屋が残らず埋没したとのことから人的被害は少なくとも白紙的に千人を超えていた(一説には数千人)ことでしょう。また、その跡は大きな淵になっていたとのことから、帰雲城と城下町が山腹から崩壊した大量の土砂によってほぼ一瞬にして跡形もなく流されて大量の土砂に埋没してしまったのでしょう。それは相当な規模の面積だったのでしょう。
 この天正地震においては、地震が度々あったとのことから、大地震の「兆候」はあったものと考えられます。しかしながら、災害が起きたのが深夜(当時の感覚では午後10時は深夜と思われる(筆者))であったこと、また翌日の祝賀会の準備を終えてゆったりと皆が熟睡していただろう時に、大きな揺れに続いての土砂崩れであり、逃げる暇(いとま)も無かったものと考えられます。

 災害には兆候があるもの、とよく云われます。例えば、言い伝えには「裏山が音をたてたら気をつけろ」という類のものもあります。がけ等が崩れる前兆として大音がするというものです。以前、当ブログ「ハザードマップをDIYしよう」(2021年7月12日)でも紹介しましたが、私自身が小さな頃に実際に遭遇し九死に一生を得た土砂崩れの際も、のちに母が「ドーン」という音がした、と言っていたことを思い出します(当ブログ「先人の教え【番外編ぁ朿特呂忙弔襦峺世づ舛─廖廖複横娃横嫁1月31日)より)。この様な土砂崩れの兆候といわれる地鳴りや地割れ、湧き水など、また大地震の前によく起きる群発的な地震など、災害の後から思い返してみると兆候だったのかと気付くものであり、災害にまさに直面しているときにはなかなか気付けないものです。
 とはいえ諦めるのではなく、いざという時は命を守るため、過去の先人たちが身をもって遺してくれた災害に対する数々の教えである、これら「兆候」や「教訓」などを忘れず、次代に語り継ぐとともに、自らが遭遇した際は冷静になって先人の教えを思い起こして、自身やご家族、そして近所の方々に伝達などして共に難を逃れて頂ければ幸いです。