危機管理業務部 主任研究員
 三宅 丈也


 古都京都は、2024年、平安京から数えて1230年が経ちます。また、ご承知のとおり明治までの1000年以上もの長い間日本の首都でした。
 今では、外国人客の訪問先として最も人気のある場所の一つといって過言は無いでしょう。また、私たち日本人にとっても古き良き文化・伝統、姿を残してくれている心の故郷といえるかもしれません。
 さて、この京都の地ですが、東の鴨川(かもがわ)、西の桂川(かつらがわ)に挟まれ、地下には「京都水盆(すいぼん)」と呼ばれる天然ダムによって琵琶湖に匹敵するほどの地下水流があるそうです。また、かつて地上には巨椋池(おぐらいけ)という巨大な池がありました。この様に京都は元来、水に恵まれた土地であるとともに、洪水に悩まされた土地でもありました。お隣の県から水を貰うとか貰わないとか・・・などの話も聞いたりはしますが。
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 桓武天皇の御代、奈良の平城京から京都の長岡京、そして西暦794年に平安京へと遷都が繰り返されました。理由は旧勢力・仏教勢力からの離隔、洪水からの逃避など云われていますが、疫病が蔓延した藤原京から平城京への遷都などを含め、この時代の遷都は人が抗しきれない様な自然災害からの逃避が大きな要因の一つであったのでしょう。

 幾度にもわたる国家的事業である遷都を繰り返したのち、先人たちは、やっと永住の地として京都に腰を据えることが出来たわけですが、決してそこも安住の地というわけでは無かったようです。平安京は、大内裏(だいり)を中心として南面して右側を右京、左側を左京と呼ばれ、その入口は有名な羅城門(らじょうもん)でした。羅城門を挟んで左右に西寺と東寺が左右対称に建立されましたが、今は東寺のみがかつての佇(たたず)まいを残しています。
 平安京は、東には「加茂河(かもがわ)(鴨川)の水、双六の賽(さい)、山法師(やまほうし)」は朕(ちん)の意のままにならずと白河法皇が嘆いたことで有名な暴れ川であった鴨川、そして西の桂川に挟まれ、北と南の高低差は約20mの穏やかな傾斜面となっています。

 その後、「左京」は順調に発展を続けたのですが、「右京」の方は平安時代中期頃から衰退が顕著になり始めました。これは「右京」は「左京」に比して土地が低く、湿地帯が広がっていたため、人々の住まいに適さないためやがて多くが耕地化してしまいました。さらに時代が下って豊臣秀吉の頃、秀吉が築いた御土居(おどい)によって「右京」は洛外(京市街の外)となってしまいました。
 このため、京の都の繁華な街は東へ東へと移っていきやがて鴨川をも渡っていきました。そして、中央にあったはずの内裏もいつの間にかま外れに位置する様になり、玄関口も東にずれていき今は京都駅付近の東寺の塔となってしまったのです。

 この様に、唐の都長安に模して造られた古代都市は奈良の藤原京、平城京、長岡京、そして平安京(京都)ともほぼ同規格、同型(藤原京のみ内裏等がほぼ中央に位置)でしたが、度重なる遷都は時の権力者間の思惑のほか、疫病や洪水などの自然災害からの逃避も重要な要因であったことは間違いないことでしょう。
 特に平安京は、上の人達の思惑とは逆に少しずつ市街の中心を東へと移していくなど、洪水や湿地など「水」との関係において、むやみに争おうとはせず共に生きていくという「共生」に軸足をおいた当時の京の一般住民(先人)の行動によって、その後、1230年間にわたって子孫である私たちに、昔の古き良き文化、伝統、建物などを残してくれるとともに、世界史的にも稀な当時の唐の建物や文化の一端を遺してくれていることに対して、あらためて感嘆するとともに敬意を表したいと思います。

 過去の当ブログ(先人の教え「戦国武将の治水、治国」(2019年3月25日)より一部抜粋)におきまして、『明治以降、近代化の名の下、欧米の先進土木技術が流入し、「治水」についても護岸工事等の構造物中心の考え方、つまり水の流れを「抑え込んでコントロールする」という真っ向から相対するという姿勢に変わってしまいました。ですが、現代に至るまで洪水が絶えたことはなく全国各地で度々発生しています。当然、予算的に護岸工事が間に合わないという理由が大きいのでしょうが、根本的に我々人間が「自然(災害)」に立ち向かっても勝てる見込みはありません。「水の流れ≒自然(災害)」に対しては、ハード面では「受け流し」て勢いを削ぐとともに、ソフト面では「早期避難」等による「減災」を図っていくなど総合的な防災行動が重要になります。つまり、無理をして水に立ち向かっていくのではなく・・・』
 この様に災害=自然に立ち向かっていくのではなく、災害が発生しやすい場所を徐々に避けていき、ともに生きていく(共生)という考え方も大切なのかもしれませんね。