危機管理業務部 主任研究員
 三宅 丈也


 続・先人の教えシリーズの第2弾『古代都市(平安京)における水との共生』(2023年11月13日)におきまして、『・・・桓武天皇の御代、奈良の平城京から京都の長岡京、そして西暦794年に平安京へと遷都が繰り返されました。理由は旧勢力・仏教勢力からの離隔、洪水からの逃避など云われていますが、疫病が蔓延した藤原京から平城京への遷都などを含め、この時代の遷都は人が抗しきれない様な自然災害からの逃避が大きな要因の一つであったのでしう。・・・』と紹介しましたが、この平安時代、当時の朝廷は平安京における水との共生に取り組む一方で、「東」を恐れ、畿内三関(不破、鈴鹿、愛発(あらち))の他に東北にも三関を設けました。これが、白河の関、勿来(なこそ)の関、鼠ヶ関(ねずがせき)です。

 「東」との闘いは更に古い時代から始まっていましたが、桓武天皇は「東」である出羽(現在の東北地方日本海側)及び陸奥(現在の東北地方太平洋側)の蝦夷(えみし)征討を決し、征東大使/征夷大将軍等旗下の大軍を幾度も陸奥に派遣し、阿弖流為(あてるい)率いる蝦夷軍との戦いを続けました。初めの頃は、地の利を得た少数精鋭の蝦夷軍がゲリラ戦法によって圧倒的大軍の朝廷軍を大いに苦しめましたが、坂上田村麻呂が大将軍等として派遣されるや蝦夷側は抗戦の限界に至って敗北、田村麻呂の勧めもあって降伏し、都へ凱旋する田村麻呂に阿弖流為以下の蝦夷側トップが引き連れられましたが、田村麻呂の助命嘆願も受け入れられず処刑されてしまいました。これが延暦21(802)年のことで、蝦夷側は朝廷側に名実ともに占領されてしまいました。この後しばらくは蝦夷側の抵抗は鳴りを潜めることになります。

 しかし、その微妙な均衡もやがて揺らぎ始めます。貞観11(869)年5月26日(旧暦)、有史以来最大級と云われる「貞観地震」が陸奥国で発生しました。日本三代実録に記録として遺されています。
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“廿六日癸未
 陸奥國地大震動流光如晝隱映頃之人民叫呼伏不能起或屋仆壓死或地裂埋殪馬牛駭奔或相昇踏城郭倉庫門櫓墻壁頽落顚覆不知其數海口哮吼聲似雷霆驚濤涌潮泝玳長忽至城下去海數十百里浩々不弁其涯涘原野道路惣爲滄溟乘船不遑登山難及溺死者千許資産苗稼殆無孑遺焉”
(引用;国立国会図書館 デジタルアーカイブ『日本三代實錄』巻十六)
漢文体で難しいですが、何となくその地震・津波の様子や被害の大きさが伝わってきます。特に津波による被害は大きく、多賀城(現在の宮城県多賀城市)一帯の被害は甚大でした。地震の規模はマグニチュード8.3以上とされています。

 本「先人の教え」シリーズの最初のブログ「先人の教え『ここより下に住むな』 〜千年の昔から、千年後の子孫へ〜 」(2019年2月25日)においても『・・・東日本大震災(2011年(平成23年)3月11日)による被害の多くは地震そのものより津波によるものが多く、当然のこと津波被害は太平洋側沿岸部に集中しました。そして、概ね37年に一度の周期で起こり得るとして警戒されていた宮城県沖地震より遥かに規模が大きかったため千年に一度の大災害と呼ばれています。では、その千年前の災害とはどういうものだったのでしょうか。今から千年余の昔の平安時代、東北地方沿岸を大津波が襲い多くの人々が命を失いました。これが貞観地震として記録されているものであり、この津波被害から数えて1000年に一度の大震災と呼ばれています。
・・・』と紹介しています。
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 多賀城は、朝廷の陸奥の出先機関として神亀(じんき)元(724)年に鎮守府将軍 大野東人(おおののあずまんど)によって築かれました。
 多賀城は貞観地震による地震動と大津波のためにその機能を一時期失ってしまいました。その後、朝廷は多賀城の復旧・復興に努めましたが、それは朝廷の直轄支配地である多賀城近辺のみに限定されたものであり、多賀城近辺以外の出羽、陸奥の多くの蝦夷の不平、不満は高まっていきました。貞観地震による被害は、最近の調査で徐々に明らかになりつつあります。被害は多賀城近辺は勿論のこと、沿岸部一帯から内陸部まで津波が遡上した痕跡が明らかになっており、その範囲は岩手県から福島県、茨城県までの大規模なものと判っています。

 以下、詳細に紹介されておりますので引用します。
 “近年の考古学の調査によっても、当時の為政者のそうした復興への努力はかいま見ることができる。たとえば発掘された遺構や瓦から判断して、多賀城の内外は地震の数年後には元どおりにされている、という。倒壊した庁舎は再建され、城下の道路や街並みも復旧している。同時期に、多賀城の鎮護寺(観音寺)も再建されている。国分寺や国分尼寺も同様である。これら公的機関の周辺は急ピッチで復興されたのだ。しかし他の地域に関しては、『三代実録』にもまるで記述がない。今日の三陸地方は、そのころは「蝦夷の地」である。あるいは、それがために見捨てられたのかもしれない。” (引用;PHP文庫 岳真也「いまこそ知っておきたい「災害の日本史」」)
 
 蝦夷の人々の不平、不満はやがて形となって大規模な反乱として現出しました。それが「元慶(がんぎょう)の乱」(元慶2(878)年)と呼ばれる出羽の蝦夷による反乱です。その攻防はすさまじく、朝廷が築いた秋田城が蝦夷軍に占拠されたり、朝廷軍が奪取したり、また蝦夷軍に奪い返されたりというものでしたが、およそ半年後には鎮圧されました。しかしながら、その後も規模は小さくなりますが各地で抵抗が続いていくことになりました。
 朝廷(ヤマト)と蝦夷の間の永年にわたる戦い、貞観地震による地震動・大津波による甚大な被害と復旧・復興、そしてそれに起因した蝦夷側の不平・不満と大規模な反乱など、平安時代は名前とは逆で決して平安などではなかった上に、都から遠く離れた、「多賀城」を軸として大きく揺れ動いたものであり、まさに朝廷(ヤマト)側と蝦夷(エミシ)側の戦闘、災害と復旧・復興、不平・不満と反乱などの最前線は多賀城であった、といえるかもしれません。

 話は変わりますが、東北(青森県)には「日本中央の碑」と彫られた石碑が遺っていることを聞いたことがあるでしょうか。また、日本書紀、風土記や中国の古い書物には、列島には倭国のほかに日高見(ひだかみ)国なる別種の国があった等の記載が遺されています。
 日本には現在に続く大和朝廷とは別の「国」があったのかもしれませんね。

 今年2024年、多賀城は創建1300年の節目の年を迎えました(参照:多賀城創建1300年記念特設サイト)。あらためましておめでとうございます。
 先人は、この間に国内外の戦争や多くの災害など、幾度もの難局を乗り越えて現在の平和な国を築き上げてくれました。そして、私たちには平和な日本とともに、先人の教えを子孫たちに伝えていく責務があるものと考えます。
 特に災害におきましては、平素からお住まいの地域で起こりそうな災害をすべて把握(ハザードマップや先人の教え等を活用)し、災害対応のための計画等を作成(避難場所・経路の把握など)し、それに基づく訓練(備え)をしておけば、いざ災害というときには早期避難等によって被る被害を格段に小さくすることができます(減災)。まさに「備えあれば憂いなし」です。小さなことから是非、実践していきたいと思います。